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第77話

(今、なんて…)  彼の言葉が理解できなくて、必死に頭を整理したいのに、焦れば焦るほど思考は複雑に絡み合って、二度とほどけない糸のようにきつく結ばれていく。  見開いた目からは、ぼたぼたと大粒の涙が止めどなく流れ続けていた。  そんな僕を、彼は憐れんだ目で、淡く微笑んではっきりと言葉にした。 「これ以上、聖を傷つけたくない。…とにかく、治療は休憩しよう」 「…ゃだ…」  顔を振って否定の意を伝えるのに、彼は立ち上がって歩き出した。急いで捕まえようとしたのに、指先は簡単に彼の袖をするり、と逃してしまう。  彼は、ドアをノックして奥に声をかけていた。 「さ、く…さく…」  僕を見ないようにして、隣を通り過ぎていく。 (どうして、どうして…)  入口の前で彼は足を止めて、僕に背中を向けたまま口を開いた。 「俺には、聖しかいない」  その言葉に、引かれるように立ち上がって手を伸ばした。彼は、大きく深呼吸をして、絞り出すかのようなかすれた声で続けた。 「誓いのキスをした、あの時からずっと、俺には聖だけだ」 「さ、…」  だらりと下がった腕の先で、彼の手は固く拳を握りしめて震えていた。引き戸が開けられて、彼は部屋を出て行ってしまった。  膝から力が抜けて、がくん、とその場に転がるようにへたり込んでしまった。後ろのドアから入ってきた山野井先生が驚いて、僕に声をかけて背中をさすった。穏やかで優しい先生の声が聞こえるのに、言葉として頭が処理できなかった。  頭の中は、彼のことでいっぱいだったから。 (どうして…、どうして、さく…)  どこで間違ってしまったのだろう。  僕が、欲をかいてしまったから? 彼を束縛しようとしたから? みんなから、彼を奪おうとしたから?  罰が下ったのだろうか。 「ごめん…ごめんなさい…」  漏れる言葉はそれしかなかった。  謝るから。いくらでも謝るから。 (僕を捨てないで…) 「やだ…嫌だよ、さく…」 (違う…)  僕が間違っていたのは、彼を見ていなかったからだ。  彼を、信じきれなかったからだ。  さくは、ずっと言ってくれていた。僕が、オメガでもベータでも、何でもいいのだと。ただ、僕が僕であることが重要だったのだ。 (僕だって、そうだよ…)  さくが、アルファだろうがベータだろうが、さくだから好きになった。  だけど、どうしたって、さくはアルファで、僕は出来損ないのオメガなのだ。その事実は、残念だけど変えられない。  さくはアルファで、たくさんの人たちが彼の隣の席を狙っていた。そういう人たちからの疎まれる視線を僕は、嫌というほど浴びてきた。だから、わかる。 (もし…)  もし、アルファとかオメガとか、そういう煩わしいもののない世界だったら。 (そうしたら、僕は、さくの隣にいられたのだろうか…)  アルファではない、さく。  あの見た目と、才能と、カリスマ性。完璧なさく。 (そうか、そういうことだったんだ…)  バース性にこだわっていたのは、僕だけだったんだ。  アルファでないさくの隣に、自分がいるイメージがわかなかった。今と、同じ。  さくに振り向いてもらえないことを、バース性のせいにしていた。今だって、さくが隣にいないのは、僕が出来損ないのオメガだからだと決めつけていた。僕が、完璧なオメガだったら、未来は違ったのだろうと、見当はずれな期待を抱いている。僕は、いつだって、何もない自分をベータというバース性のせいだと責任転嫁していた。  だから、自分に自信が持てないし、好きになれなかった。蔑まれても当然なのだ。  完璧で、完全なアルファのさくの隣に、こんな自分が立てるはずがなかった。 (さくは、僕のために努力したと言っていた…)  誰もが振り返り、膝をつく、完璧の男。それなのに、僕に見合うように頑張れたと言っていた。それだけの男でさえ、たった一人の人間のために、努力していると言っていた。その一人が、僕だと、さくは言った。 (もっと、胸を張れば良かった…)  それだけ愛されていたのだと、ようやく実感として湧いてくる。  忙しいに決まっている彼が、毎回必ず手土産を持って僕に会いに来てくれた。一度、はっきりと拒絶したのに、大雪の中、僕に会いに来てくれた。嫌な顔ひとつせずに、誰にも見せない笑顔で僕に好きだと言ってくれた。  それが、どのくらい誇らしいことなのか。ようやく見えてきた。 (好きな人に、好きって言ってもらえるのは、奇跡なんだ…)  好きだというと、さくは僕にしか見せないような笑顔をしていた。  さくに好きだと言われると、胸が縮むように苦しくて、息すらつけなかった。  頭に浮かぶそれらの場面が、すべて、きらきらと輝いて見えて、尊いものなのだと今ならよくわかる。 (わがまま、言えば良かった…)  僕だけを見て、と本音を言ったら、どうなっていたのだろうか。  さくは、たくさん言葉を尽くしてくれた。姿も見せてくれていた。けれど、たった一つの石につまずくと、何もかもが疑わしくて、信用できなくなった。 (それで、嫌いにはなれなかった)  なぜなら、さくの瞳は、僕をまっすぐに見つめてくれたから。  あの瑠璃色の宝石に見つめられると、それでいいと思えた。  大好きな人に、なんてつらいことを言ってしまったのだろう。後悔は、いくらでも僕の中で膨れ上がっていく。  でも、僕には、彼を追う勇気がなかった。僕がまいた種だから。今、追いかけたところで、結局たどり着くのは、同じ結末だと思えた。  たくさんのタイミングが僕たちの間にはあって、その度に、僕は動けなかった。  いつも、彼が与えてくれるものに縋って、甘えて。自分から動いて傷つくことを恐れて、何もさくに与えることができなかった。そんな自分では、結局同じ未来が待っている。 (僕が、変わらないといけないんだ…)  さくに、振り向いてもらえるように。  さくに、また好きだと言ってもらえるように。  僕が、僕をさくの隣に立つことを認めてあげられるように。

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