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第78話
「九条さん」
振り返ると、黒髪を七三にきっちりと分けた眼鏡の女性が立っていた。僕の上司の岩立さんだった。
「こちらのバーコードが破損しているので修理をお願いしてもよろしいですか?」
見た目通りの丁寧な口調だけれど、表情ひとつ変えずに、岩立さんは告げる。この無表情さに、冷たさを感じて、最初は戸惑ったけれど、今の僕は、彼女がどれだけ本が好きで、冷静で賢い人なのかがわかっているのから、何も怖く感じない。にこりと笑って、喜んで、と受け取る。こうやって、仕事を任せてもらえることは、嬉しいことだと、僕は最近知った。
彼から別れを告げられてから、五か月が経った。夏の始まりを告げるアブラゼミの鳴き声は、鈴虫に代わり、今は木枯らしに巡りうつった。
彼のいない毎日は、色のないものだった。朝起きても泣いて、寝ていても涙を流していて目が覚めてしまった。もう、仕方のないことなのだと頭ではわかっていた。けれど、言葉には表し難い、不足感がずっとあって、気づくと途方もない不安感と虚無感に襲われてしまう。
オメガの促進剤は一度やめた。
別れを告げられたあの日、診察室でずっと大泣きの僕を山野井先生は献身的にずっと慰めてくれた。別日に落ち着いて相談しようと提案をしてくれて、予約の取りにくい忙しい先生が、昼休みの時間を使って、僕と面談してくれた。その時に、バース性のホルモン不安定さによって、気持ちが落ち着かないのだと説明を受けた。それに加えて、副作用の身体の不調もあってはいくら丈夫な人でも耐えられないことを諭され、僕は服薬を一度やめた。それすらも不安でたまらなかったけれど、山野井先生が何度も笑顔で励ましてくれた。
「人生、なんだってなるようにしかなりません。急いでも遅れても、結果はいつだって変わりませんよ」
そうやって何度も背中を撫でてくれる先生の言葉によって、少しずつ気持ちを前に向かせることができた。先生から、カウンセラーの先生の紹介も受け、僕の世界はどん底の真っ暗闇だったものが、明るいものに変わっていった。執事たちも両親も、温かく僕を見守って、応援してくれた。薬が身体から、じわりじわりと抜けていくように、心も軽くなっていくようだった。
僕は、いつだって、彼を待っていた。
会いに来てくれるのも、好きだと言ってくれたのも、手を取ってくれたのも、全部、彼からだった。
僕は、いつだって、逃げていた。
自分が傷つくのを恐れて、自分を守ることに必死だった。
だから、今度は、僕が彼に会いに行こうと決めた。
僕が、彼に、好きだと言おう。手を取って、一緒に歩こう。
そう気づけると、僕は、すぐに机に向かった。夢中で勉強した。
まず、ちゃんと四月から、彼と同じ大学に通うこと。その時に、恥ずかしくない自分でありたい。
もっと、胸を張って、堂々と、彼の隣を歩ける自分になりたい。
完璧な彼と引けをとらない、自分になりたい。
自分が、好きでいられる自分を、彼に好きになってほしい。
八月の終わりに受けた模試では、ほとんどの教科で満点を獲得した。結果を見た時は、久しぶりに心が高鳴って、真っ先に報告したくなった。携帯を開き、彼の連絡先を表示したまま、僕は震える指を止めた。
嬉しいことを、その時に共有できることは、なんてしあわせなことなのだろうと気づいた。小さい頃、僕にあった嬉しいことを親よりもまず、彼に報告していた。僕以上に、顔を赤くし、目を輝かせて、飛び跳ねて喜んでくれる彼が、大好きだった。
胸元で、模試の結果が印刷された紙が、くしゃり、と歪んだ。
もっと、頑張ろう。僕は、力強く、一歩を踏み出した。
受験勉強もこなれてきて、また新しく、何かを始めようと僕は考えた。
彼が、大学進学への後押しをしてくれた。その時、僕が心の中でこっそりと秘めていたことがあった。弁護士や医師になって、困っている人を助けられる人になりたいと考えていた。漠然としたそんな夢を、彼は気づいていたのかもしれない。あの時の、優しい彼の笑顔を思い出すと、胸が縛られて、居ても立ってもいられなくなる。
急いで近くにある県立図書館に行って、司法試験についての本を読んだ。あの日、家に帰った時に、不思議な高揚感があって、身体にエネルギーが満ち溢れている感じがした。
(生きるって、こんなにわくわくするんだ…)
純粋に、言葉として表せて、心がちゃんと頭や身体とつながった。思い返すと、通院や誰かに誘われての外出ばかりだった僕が、自分の意思で家を出たのは、長らくなかった。いつも自室の窓から見上げる空が、あんなにも広く、高いものだったのだと気づいた。
その日から僕は、毎日、県立図書館に通った。勉強したり、本を読んだり。図書館の中に小さな喫茶店があって、そこのコーヒーを飲みながら、大きなはめ込みの窓から変わりゆく季節の風景を味わった。ぼう、と隣接する公園の景色を眺めている。老夫婦がスポーツウェアでウォーキングをしたり、子どもの手をひいて笑顔で散歩する家族がいたり、犬と共に駆けまわる子どもがいたり。ゆっくりと息をつけるようになれたことに、ひどく人間らしく、安堵した。
綿貫が僕を乗せたがったが、僕は歩いて図書館に通うようになった。ちゃんと自分の足で一歩ずつ踏みしめるって、わくわくする。綿貫がすねるから、たまにドライブもお願いした。その車の中で、綿貫に、最近あったわくわくしたことを話す。他愛のない僕の話を、綿貫は珍しく緩んだ顔で聞いてくれる。
図書館に通うようになって、ひと月した頃に、カウンターにあったアルバイト募集のチラシを手にした。
「興味あるのかい?」
声の主に視線を移すと、よく僕の貸し出しを行ってくれる谷口さんが優しい顔で立っていた。初老の男性で、丸眼鏡の似合う小柄な人だった。話し方がとても穏やかで優しくて、細い目はいつもさがっていて、笑い皺が愛おしいおじいちゃんだった。
「そう、ですね…」
チラシに視線を戻す。
アルバイト、なんてしたことない。しようと考えたこともなかった。けれど、そのチラシを見ていると、とくんとくん、と心臓が早鐘を打ち出す。
「九条さんなら、私も嬉しいねえ」
谷口さんはいつもの優しい笑顔で、僕を見ていた。
「ぼ、くが、働いても、いいのでしょうか…」
ぽろり、と疑問が言葉になってこぼれた。無意識のようだった気がする。谷口さんは、人をついつい安心させてしまう才能を持っていた。金の細いフレームの眼鏡を持ち上げて、もちろんだよ、とさらに皺を深めて笑ってくれた。
「僕、ここで働きたいです…っ!」
谷口さんの後押しもあり、僕は生まれて初めて、履歴書を書いて、面接を受けた。入退室も質問への受け答えも練習してきたつもりだったが、終わってしまうとちゃんとできていたかわからなかった。それくらい、緊張していた。終わって図書館から出ると、妙な浮遊感があって、スキップして公園を駆け抜けたくなった。
見事、ご縁があって、僕の通う場所は、生まれて初めて得た職場となった。カウンターで貸し出しの業務を行うこともあれば、本の修繕や返却期限を過ぎた人への電話対応をしたり、新規本の登録をしたりと様々な仕事を体験させてもらった。谷口さんや岩立さん、常連のおじいちゃんやおばあちゃん。子どもに、お母さんに。色々な顔なじみが増えた。僕の世界がどんどんと広がっていった。
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