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第87話
「しゅう…」
「いつでも、僕のとこに、来て、いいからね…」
「聖」
息絶え絶えに柊が、最後まで冗談をいって僕を励ましてくれて、さらに胸が苦しくなって、涙が溢れたところで、後ろから腕を引き上げられて、抱き起される。
「さ、んうっ」
熱い身体に抱き寄せられたと思ったら、大きな手のひらで顎を掴まれて唇を塞がれた。驚いて目を見張ってしまうが、目の前には、彼の深い青の瞳がまっすぐに僕を見つめていた。
「ちょ、さぁ、っう」
甘い唾液と共に、湿った舌が口内に、ぬろ、と差し込まれて、口を開けば、舌根まで長い舌を刺しこまれてしまって、身動きがとれなくなってしまう。
何が起こっているのか靄がかる頭で理解できる頃には、身体の力が抜けて、彼に抱きしめてもらわないと立っていられなくなっていた。
「ん、ぁ…さくぅ…?」
唇が解放されて、名前をつぶやくと彼は、僕の濡れた唇を親指で撫でた。
「俺以外見るな」
手のひらが耳を塞ぐように頭を包む。鼓膜からは自分の早い鼓動しか聞こえてこなくて、愛する人からの口づけに恍惚とする僕は、彼を見つめるしか出来なかった。まぶしいものを見るかのように、彼は目を細めて、僕に尋ねた。
「なぜ、こっちに来た…?」
今は、早く柊を病院にかけるべきだと動こうとすると、彼は僕が身じろぐことを許さずにきつく抱きしめて、顔を振り向かせる。そして、なあ、と問いかけるのだ。あまりにも真剣で、なんだか寂しそうに揺らぐ瞳が愛おしくて、頭の中が、彼でいっぱいになってきてしまう。
「さくに…」
「うん…」
目の奥がじりじりと疼いて、星がぶつかってきらめくような小さな衝撃がいくつもある。その中で、たくさんの言葉を探る。自分の気持ちをいくつにも考える。
ここまで来るのに、あまりにも長い道のりだった。
マゼンダ色のツツジに囲まれて、キスをして誓い合ったあの日から。
純粋に好きだという気持ちだけだったのに、どうしてここまで、様々な出来事があったのだろう。
色々な人たちから、たくさんの彼の話を受けた。それはどれも、つらいものばかりだった気がする。秀でた力を持つ彼が、あまりにも僕と遠い存在だったから。
不安でたまらなかった。
何も持たない僕が、彼の隣に立っていていいのか、と。
だから、傷つきたくなくて、目を反らして、嘘をついて、都合の良い言葉ばかりを募ってきた。
「俺に?」
目尻を、そろそろと優しく、うかがうように彼の親指が撫でる。下がっていた視線をあげると、彼の海よりも深い青に浸るつやめく瞳は僕をまっすぐ見つめていた。僕だけが、その瞳に反射して見えた。
(僕は、不器用だ…)
それに、妙に繊細で、気にしいで、自信がない。そのくせ、自惚れやすくて。どんくさくて。
でも、それでも、頑張ってきた。
たったちっぽけなことかもしれないけれど、僕にとっては、大きな出来事がこの半年に詰まっていた。少しずつ、僕だって前に進めた。世界が広がって、僕が僕の世界を創れたのだ。
僕がたった一人の人間のように、どれだけ力を持っている彼も、同じたった一人の人間なのだ。
背負っているものの重圧は異なる。持っているものも違う。
それでも、僕だって、社会の一員であり、彼だって同じなのだ。
アルファだろうが、オメガだろうが、僕は僕で、彼は彼なのだ。
だから、彼を正面から見つめ返して、はっきりと言葉にできる。
「伝えに来たんだ」
彼の肩に置いていた手を握り締める。彼は、さらに、腰に回していた手を、ぐ、と近寄せた。そして、吐息が唇をかすめる距離で、先を促した。
「何を…?」
ふわ、と彼の甘美な香りが漂う。
(会いたかった…)
ずっと、この香りに包まれたかった。長い腕に抱きしめられたかった。
この瞳に、僕だけを映させたかった。
「僕、出会った時から、ずっと、さくのことが…好きだった」
ちかり、と彼の瞳の中で星が瞬いたように小さく光って、長い睫毛が縁取りながら細められた。頬を緩めて、とろけるような微笑みを見せる。これが、僕が見たかった、彼の笑顔だ。そう思うと、勝手に手が伸びて、彼の輪郭に触れる。さらに彼は笑みを深くした。
「僕の、僕だけの、恋人になって」
(もう、逃げない)
涙が、つ、と零れた。それでも、僕は一心に彼を見つめて、言葉に出来た。
「聖…」
か細く、彼の声が溢れるように僕の名前を呼んだ。
不安と、決意と、喜びと、たくさんの彼への気持ちが混ざった僕は、彼の髪の毛に指を指し込んで、頭を抱えた。
「誓って、僕だけの恋人になるって」
前のめりに背伸びをすると、睫毛が触れ合って、絡み合ってしまいそうな距離になる。
(さく、早く…)
心臓が、大きく跳ねながら何度も彼の答えを待っている。顎先から、ぽた、と落ちた涙は彼のコートに吸い込まれていく。
彼が、深く息を吸って、瞼を降ろした。
「待ちわびた…」
うなるような独り言は、これだけ近くにいても聞き取りにくかった。聞き直そうかとした時、長い睫毛がゆったりと上がって、僕を見つけた。それから、しあわせそうに細められて、彼は甘く囁いた。
「喜んで」
ようやく、すぐ傍にあった唇がお互いを吸い合った。
爪先から体温が引いて、心臓から一気に血が巡る。全身がびりびりと痺れるような歓喜に包まれて、頭の芯がぼう、と低く鳴っているようだった。顔を離すと、くらり、と眩暈がして、彼の肩に頭を預けた。それから、彼が躊躇いなく僕を横抱きに抱え上げると、歩を進める。
僕は彼越しに柊が見えたけれど、鈍い頭では何も声にすることも出来ずに、ただ寂しそうに笑う柊に視線を送ることしか出来なかった。
(柊、ありがとう…)
さよなら、と小さく口に出来たかはわからなかった。僕は、彼が柊に、ぎらりと冷たく一瞥したことなんか、気づきもしなかった。
部屋を出ると、彼は長い脚でずんずんとフロアを進んでいく。すれ違いざまに、血相を変えた柊の秘書の男の人たち数名が走っていくのが見えた。彼も男たちも他人の様に何もなく、隣を通り過ぎていった。
胸の中が散りつくように、寂しさを訴えるが、耳を澄ますと、彼の力強い鼓動が聞こえる。顔をあげると、愛しい人の美しい顔がある。すぐに僕に気づいて、誰にも見せない笑みを僕を見つめて、与えてくれる。瞼が重くて、顔も熱い。ぼう、と見つめていると、彼が誘われるように、僕に口づけをする。
「聖、愛してるよ」
当たり前のようにして、微笑んで、もう一度、熱い唇を合わせた。
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