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第88話
草原に寝転んでいるような居心地の良さがあった。重い瞼を上げると、幼き日の彼が僕と同じように寝転んで、くすくすと笑っていた。それを見るだけで、僕は胸が熱くなり、頬が緩んでしまう。
「聖、大好き」
高いボーイソプラノの彼の声が聞こえると、嬉しくてたまらなくて、僕も、と答える。より笑みを深めて、頬を染め、彼は囁いた。
「聖だけが、僕のお姫様だよ」
ずっと、ね。
彼が笑うと、大地も喜んだように、優しい日差しをさらにきらきらと輝かせ、風がたなびき頬を優しく撫でる。
「大好き」
そ、と幼い彼が、僕に顔を寄せると、額に唇を押し当てた。
滲んだようにぼやけた視界を開くと、額に温かな感触があった。周りの鈍い頭で時間をかけて処理をしていく。陰っていた視界は、温かな暖色のライトで開けていく。軽く軋む音がすると、優しく、花蜜の香りが僕を包む。
「聖…?」
目尻をくすぐるように擦る指を見下ろしてから、視線をあげると、すぐそこに彼がいた。同じベッドに彼が横になって僕を覗き込んでいるようだった。
「さく…」
名前を呼んだだけなのに、美しい瞳に星をたくさん詰め込んで光らせているようなのにそれを隠すように細めてしまう。
「つらいとこはないか?」
長い睫毛が頬をくすぐる。額を擦り合わせて彼が僕を抱き寄せた。
腕を動かして、そ、と彼の頬に触れる。冷たい指先が、熱い彼の体温に溶けてしまいそうで、腕を戻そうとすると、その手を捕まえて、頬ずりをした。
「もっと…」
上目遣いでねだる彼は、大柄なのに、夢の中の少年の時のようだった。ふ、と顔が緩むと、彼も嬉しそうに笑う。こうやって時間を過ごすのも、随分久しぶりなことだと思った。
彼が強請るから、精悍な輪郭を手で包むと、さらに身体を寄せてきた。近くで見ると、濃いクマがあることに気づく。そこを撫でるが、彼が気づいていないのか、とにかくご機嫌なようで微笑んでいた。
「さく、寝てないの…?」
「そんなことはない。それより、聖の体調はどうだ?」
僕の手に擦り寄ると、時たま、手のひらに唇で吸いついた。その度に、僕の心臓は簡単に跳ねて、指先がぴく、と反応する。
「大丈夫…僕…」
あの後、どうなったんだっけ…。
彼に抱き上げられて、エレベーターに乗ったところまでは覚えている。そのあと、彼の腕の中で眠りについてしまった。どうやら、シルクのパジャマに着替えが済んでいるようで、広くはないベッドに彼と横になっている。そして、おそらく外は夜であることがわかった。
「医者には見てもらった。薬物反応も微量で、もう抜けているはずだ」
どうだ?、と彼が身体を起して、僕の顔を見下ろした。
「ここは…?」
「ここは、俺の家だ。ここを知っているのは、俺と聖だけだ」
だから安心しろ、と彼は微笑んで、僕の眦にキスをした。ひくん、と喉が鳴ってしまう。
「どのくらい、寝てた…?」
「対して寝てない。あれから、三時間くらいか…」
彼が僕を抱きしめて、自分の腕についた時計を見た。まだ今日が昨日になる前の時間帯だった。
「柊、は…?」
顔を上げて、尋ねると、先ほどまで緩み切っていた顔が急に硬直して、眉間に皺を寄せた。
「起きて早々に違う男の話か?」
低い声で、彼は、僕を抱きしめていた腕をほどいて、顔の横に腕を置いて上に乗った。彼越しに天井が見えて、ここがベッドで、すぐ目の前に好きな男がいるという現実が、だんだん生々しく理解できて、頭が冴えてくる。
「そ、そういう訳じゃ…」
彼を上目で見ていると、なんだか顔がやけに熱くなってくる。ふ、とついた息が、あまりにも湿度を帯びていて、自分でも驚いてしまう。目を反らして、手の甲で口元を押さえる。ごく、と唾を飲み込む音がして、視線をあげると、彼が僕の上から退いて、ベッドの端に腰掛けた。
僕も身体を起して、ベッドヘッドに背中を預ける。身体は、もう怠くもなく、いつも通りの状態に戻っていた。辺りをライトが包んでいて、部屋はワンルームで、あまり広くはない。物はほとんどなく、生活感のない狭い部屋は、彼らしくないと思えた。
「あそこで話したことはすべて事実だ。だが、今頃は秘書たちがうまくやってるだろう」
やつが加害されることはないだろう。と彼は暗闇を見つめながら話してくれた。
「…ありがとう」
おそらく、彼がそうなるように仕組んでくれていたのだろうと思う。彼の怒りは本物だった。けれど、あの人たちを見殺しにするような残虐性はないはずだから。
彼が大きな溜め息をついて、がっくしと項垂れた。心配して、その広い背中に手を差し伸べようとしたところで、彼が振り返った。
「ところで、どうやってアメリカまで?」
やや先ほどの不機嫌さを残しているようだったが、自分の中で気持ちを整理しているようだったので、僕は見守ることにした。しかし、彼から尋ねられたことに、目を見張った。
「え? さくが、チケットくれたんじゃないの?」
彼は眉間に皺を寄せて、僕を見つめた。え、と戸惑いが止まらない。
「え…? 紅茶とか、本とかも、さくじゃないの…?」
「俺は、聖に贈り物はしていないが…」
どういうこと?
僕はずっと、彼だと思っていた。ただ、今思い返せば、プレゼントとして受け取ったものは、僕の好みではない本だったり、色味の強いお菓子だったりがあった。確かに多少の違和感はあった。
(じゃあ、誰が…?)
得体の知れない恐怖に、背筋が、す、と冷える。心当たりを探そうと頭を巡らせていると、彼が大きく舌打ちをした。
「あの野郎…」
苦々しく奥歯を鳴らす彼は、やっぱり殺すべきだった…と物騒なことをつぶやく。その言葉から、は、と気づく。
(プレゼントの紅茶、あの紅茶と同じだったんだ…)
柊の部屋で飲んだ紅茶は、プレゼントとしてもらった紅茶と同じだった。けれど、後味の変な甘さが気になったら、僕は意識を失った。あの紅茶で油断させて、僕にまた柊は薬を盛ったのか。
「まさか、食べ物は口にしてないだろうな?」
顔色を無くした彼が、僕に勢いよく振り返って尋ねる。僕は、ぱちぱち、と瞬きをいくつかしてから、いつも通りの調子で答えた。
「え? 食べたよ? さくからのプレゼントだと思ったし…」
答えと同時に、さくは大げさなほどの溜め息をついて、頭を抱えていた。
「なんでそう、聖は隙まみれなんだ…」
「なっ!」
僕だって、ちゃんと最初は警戒した。無記名だし。でも、丁度、彼と喫茶店で再会した後だったし、期待してしまったんだ。
あの贈り物を信じていたけれど、結果、僕が勘違いしていたこともショックなのに、彼からの余計な一言に、かちん、と来てしまった。
「そ、そんなの…さくだって、隙まみれじゃんっ」
頭を上げた彼は、ゆっくりとこちらに振り返って、瞠目していた。僕は、一瞬言葉を飲んだが、言ってしまえと思い切って、言葉を集めた。
「さくだって、知らない女の人と朝まで一緒にいるし、あ、…あいつと一緒にいたじゃないか…っ」
ぎゅ、とシーツを握りしめた。落とした視線の先の自分の手は、固く拳を作って震えていた。
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