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第1話 セカンドインシデント

 ――人生には、もうこれはダメだ、と思える、人生の転機になるようなインシデントが三度やってくるんです。  インシデントとは出来事、事件等を指していう言葉で、近年ではインシデント、重大な問題の一歩手前レベルの出来事のことをそう呼んでいる。  インシデントレポート。  職場でそんな言葉を耳にすることも多くなった……かもしれない。  ――誰にでも三度。  あれは高校の時の夏期講習で言われた言葉だった。  小論文の夏期特別短期講習に出ていた時、その講師が授業の最初、冒頭でそんなことを壇上で話したんだ。  人生を変える出来事が三度やってくる。その三度を乗り越えられる、最善を選べる術を見つける。その手伝いの一つに、この夏季特短講習がなればと思っているって、言われて、小論で人生が変わるようなそのインシデントとやらを乗り越えられるのか? と、生意気だった高校生の俺は思ったっけ。  でも、俺は慎重派で、ビビりだから。  そんな日が来るのか。それは大変だ。そんな転機が三度もやってくるなんてと、こっそりと身構えたのも覚えてる。  それからしばらくして、一回目、と思われるインシデントに遭遇した。  ――ごめん。治史。  インシデント、なのか?  でも不慮の出来事。事故。災難とかの意味で考えれば、該当するとは思う。  人生の転機にはなった、かな。  俺はそれ以来、恋をしなくなったから。  あと二回。  あともう二回、あんなことがあるのかと、あんな思いをするのかと、思いながら過ごしてた。  仕事面では順調。  三十歳という異例の若さで課長に昇任。同期でここまで上がれた奴はいないくらいには、順調。  二回目が訪れる気配はとりあえずはなかった。  ――はち、さん。  けれど、インシデントは突然やってくるものだから。予想なんてつくわけがない。  もちろん、知る訳もない。  まだ暑さの残る、いや、まだ夏なんだろうと思える酷暑の九月一日、そんな人生を変える二度目のインシデントが俺を待ち構えてた、なんて。  九月一日、学生ならちょうど新学期が始まる頃か。  あ、今って、九月一日に始まらないんだっけ?  地域によるのか?  あー、けど、うちの部の女性社員がたしか、子どもの学校が始まったけど、給食がまだ開始じゃなくてお弁当が大変だって話してたな。じゃあ、もう学校が始まってるのか。学生も大変だな。まだこんな夏真っ盛りみたいな中、学校に行くなんて。  なんてことを思った九月一日、新入社員にとっては入社してから五ヶ月目になる。  研修で、あっちこっちの部署で学ぶ三ヶ月間の後、それぞれの個性や相性も加味しつつ、七月に正式な所属部署が決定。そこから九月一日である本日で二ヶ月が丸っと経過。っていう、ちょうど環境にも仕事にも慣れ出してきて、ポカミスも出始める頃……か。 「以上が本社工場で発生したクレームとその対策です。他に何か」 『……』 「そちらの工場の方から何か、ありますか?」 『……あー、いえぇ……とくには……』  先月、椅子のみを製造している小さな工場を吸収、合併した。  うちの会社は最大手とされている家具の製造から販売までを一貫して行う企業で、この小さな工場もその傘下となった。  その本社品質保証課課長をしている。  解像度低めの画面の向こうでにっこりと愛想笑いを浮かべている彼はその吸収した町工場で、俺と同じ品質保証課課長。つまりは同じ役職……とは、あまり思えないけれど。 「毎月二回、メールにて先にご説明しましたが、各拠点とオンラインで繋がってこうしてミーティングをしています。品質保証業務におけるあらゆる情報の水平展開が目的です」 『……はぃ』  小さな町工場だと聞いている。画面の向こう側に見える部屋の風景からするとそこまで町工場って感じはしないけれど、全容を見たわけじゃないから。  ただ人の数だけで言えば、どの拠点よりもダントツで少ない。  品証部がたったの三人しかいないなんて。  一人がこの課長さん。  もう一人、その横に女性がいつも座っている。多分、デスクワークが主なんだろう。書類関係の問い合わせをすると大体この女性、斉藤さんが答えるから。  そして、いつも画面の一番奥にいる若い男性。  名前は枝島(えだしま)、だけれど、顔はほとんどわからない。  画面も粗い上にいつも俯いていて、顔を上げたことがないから。 「もしも、何かそちらにて不適合の不具合等を発見した場合は教えてください。それが社全体での品質テスト能力へのレベルアップに繋がりますから」 『はぃ』 「それでは……」  向こうはとくに話したいこともなさそうだったから、ミーティングをここで終えようと思っていた。 『あの』  低い声。 『いいっすか?』  ぶっきらぼうな話し方。 『ちょっと、今のクレームの、あんまわからなかったんで……』  一番奥に座っていた枝島、だった。画像のせいもあるけれど、せっかく顔を上げても前髪が長めで顔はあまり見えない。けれど、声は思っていた以上に低いんだな。若い、とは思う。年齢までは資料には載ってなかったから。 「あ、あぁ……早口だった。もう一度説明する」 『っす』  好まれてはいない、というのはその声色でよくわかる。  まぁ、向こうの町工場にしてみたら、俺たちは『敵』のようなものだろうな。もしくは『乗っ取り屋』、突然吸収合併して、あれしろこれしろと、短期間でそのやり方を全て、有無を言わさず変えようとするんだから。  いやなんだろうな。 『……ありがとうございます』 「いや、質問してくれてありがとう」 『っす』 「それでは、今週の品質定例ミーティングは終了です」  その声とほぼ同時にあっちこっちの拠点から「お疲れ様でした」の声が聞こえ、次々に画面がオフに切り替わっていった。その町工場は、まだオンラインミーティングが不慣れなんだろう。課長と女性がどう切るのかと慌てていると、さっき発言した枝島がふらりと立ち上がり、手を画面へと伸ばして。  ――プツ。  そこで画面がようやくオフになった。 「……ふぅ」  まぁ、好かれはしないだろうな。いいけど、別に。仕事、だから。  一つ、深呼吸をして、俺は自分の仕事へと。 「あ、久喜(くき)課長、ちょっといいかな」 「……はい」  さっきの町工場は多分あの、向こうの品質保証課課長がPCに不慣れなせいもあるだろう、全員でオンラインミーティングに一緒に参加している。でも通常はどの拠点も各々自身のデスクから品質定例ミーティングに参加していた。俺の上司、内田部長もうそうして自身のデスクから参加していた。  ひらひらと俺を手招かれて席を立つと、そのまま連れ立って部屋を後にした。 「? あの」  なんだ? 最近、特別なクレームもなかったはず。 「どうかしましたか?」  本社品質部は二つ、品質保証課と、品質管理課。俺はその保証部の課長で、この内田さんは品質部のトップになっている。 「忙しいところ悪いね。さっきの工場なんだけどね」 「はい……」  あ、これは、嫌な予感がする……かもしれない。 「まぁ、君のことだ。なんとなく察してるだろうけれど」  嫌な予感なら今ヒシヒシと察してる。 「そこがどうやら、かなり、色々あってね。とりあえず、三週間、立て直しに行ってもらえないか?」 「えぇ…………え?」  そして、もう一つの予感。ここ、なのかもしれない。 「三週間、ですか?」  いつも少しだけ身構えてた。  いつも頭の隅っこでこれかもしれない。いや、違うかな? もっとすごかったもんな、なんて考えていた。  二回目はいつ来るんだろうと。 「そう。とりあえず、三週間」 「ですが、今、出荷前の」 「あぁ、それはチームリーダーに任せて。向こうの工場再建が急務なんだ」  もしかして、これが二回目? 「君に頼む」  いや、やっぱり、そんな気がする。それっぽい。 「工場の立て直し」  人生の転機になるようなインシデント、第二回目。 「……はい」  それがやってきた、のかもしれない。

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