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第1話 お日さま燦燦
あぁ、案外、大丈夫になるんだ。
あんなに怖かったのに。そりゃ、そうか、もう五年も経つんだ。一時は膝ぐらいまであったら、それがどこだとしても、どんな量だとしても、身体が震えてた。だから、こんなたくさんの水を目の前にして大丈夫かなって、心配してたのに。
俺、ちゃんと息できてる。
「――えき、様? 佐伯様?」
「! は、はいっ」
ガラスの向こうの水よりも、今、いきなり耳に飛び込んできた声に飛び上がった。
「夏季集中短期レッスン合計十回ですね」
「あ、はい」
ボーっとしてた。五年、あっという間すぎて自分の恐怖心がこんなに薄らいでいることもわかってなかった。
怖くて仕方なかったのに、今、平然と座っている自分がいた。
「こちらにも詳しいことが書いてあるんですが……」
目の前で受付の女性が話しているのを聞きながら、もう一度、プールへと視線を向けた。でも、心はすくみ上がることも、指先が恐怖で強張ることもなかった。
休憩中なんだろうか、水面がとても滑らかで静まり返っているプールを、俺は眺めていられる。
「こちらですね。あと、実際にレッスンを受けられるのは……」
「あ、息子の伊都(いと)です」
「でしたら、こちらの欄にはレッスンを受けられる方のお名前を」
「はい」
綺麗な貝殻色をした爪先が指した先に「佐伯伊都(さえきいと)」と書いた。
「こちらに保護者の方のお名前を」
保育園でプールに入るくらいしか水になれるチャンスがなかった伊都は小学校に上がって全く泳ぐことができず。かといって俺は泳ぎを教えてあげることができないから、慌てて隣町のスポーツクラブで募集していた夏季水泳特別レッスンに参加することにした。
けっこういるんだって、受付の女性も言ってた。小学校上がってすぐの夏休み、水泳を事前に習っていた子もいるし、元からすんなり泳げる子もいる。けれど、全く泳げない子もやっぱりいて、そういう子がこういった「夏季集中レッスン」に駆け込んでくるんだそうだ。
隣町にしたのは、全く泳げないことを恥ずかしいと伊都が呟いたからだった。
送り迎えをするのに車を使わないといけないから面倒なんだけれど、泳げないのは俺のせいでもあるから。
「プール用はないのですが、クラブバッグがあるので今持ってきますね」
怖くないけれど、それでもどこか緊張してたんだな。受付の女性が席を立ち、このテーブルにいるのが俺と、伊都だけになった途端、少しだけ肩の力が抜けたのがわかる。
「……お父さん」
「んー?」
小学校にあがったら、俺の呼び方が「パパ」から「お父さん」に変わった。少し男の子らしくなった気がする伊都がちらりとプールへ視線を送った。
「平気?」
プール、怖くない? と、首を傾げて覗き込んでいる。
「大丈夫だよ」
「そっか。よかったね」
ホッとしてた。伊都も、俺も。
「俺、泳げるようになるかなぁ」
そういや、最近は完全に自分のこと「俺」って呼ぶようになったな。あの頃は……いや、あの当時はまだ俺とか僕とか以前、まだ片言だったっけ。
麻美が死んだ当時は――。
水難事故だった。海に三人で来ていて、足を通して座っている状態になれる浮き輪をした伊都と俺と、麻美で海で浮かんでた。本当に一瞬だった。突然、それこそ交通事故みたいに襲い掛かった大波。俺は伊都がひっくり返らないように手を伸ばすことに精一杯で、麻美の手を掴んでやれなかった。
波にさらわれた麻美が帰ってきたのはその日の夕方だった。
俺はその日から水が怖くなった。
「お待たせしました!」
受付の女性が手に持っていたビニール製の子ども用ボストンバック。伊都はそれを受け取るとパッと表情を輝かせた。
「これで、スイミング習える!」
「そうだね」
「今、レッスンとレッスンの合間で誰もいないんですけど、ここで練習するので、えっと、練習開始の十五分前ですね。こちらに来ていただいて館内の説明をその時します」
もう一度プールに視線をやってみる。
すごいな。時間って、本当に。何度見ても、水色のプールに、大量の水に、恐怖を感じることはなかった。
「そんなに嬉しい?」
帰りの車の中でずっとバッグを膝の上に乗せて、チャックを開けたり閉めたり、中に入っているのは説明書と、契約の書類だけなのに、それでも嬉しそうに目を輝かせている。
「うんっ!」
「……ごめんな」
ちょうど信号が赤になったところで、頭を撫でてやると、少しくすぐったそうに肩を竦めてから、首を横に振った。
一度も俺はプールにも海にも連れていってあげられなかった。事故の直後は風呂の湯船ってわかっていてもギリギリだったんだ。「恐怖」がぴったりと肌にくっつきそうなほどの近さで隣に座っている感じ。ほんの少しでも身じろげば、触れて、叫んでしまいそうだった。だからギリギリのところでずっと「これはお風呂」って繰り返し自分に言い聞かせながら、二歳だった伊都を風呂に入れていた。
そして、段々となれて、湯船くらいなら大丈夫になっていった。
「楽しいといいね、プール」
「ちょっと恥ずかしいけどね。泳げないの」
「それはごめんってば」
「でもいいよ。夏にパパと山行って遊ぶの楽しいもん」
あ、今、本当に嬉しくて忘れてるみたいだ。呼び方が小さな頃と同じ「パパ」になってた。伊都はそんなの気にせずに笑顔で、もう一度、鞄の中を覗き込んでいる。
「頑張れ」
「うんっ!」
よっぽど嬉しいらしく、鞄から顔を上げた伊都の頬は紅潮していた。
夏休み特別レッスンは毎日行われてるけど、送り迎えがあるから俺の休みの時しか連れて来れなくて、週二回のレッスン、土日のみ。
どうしよう、大丈夫かな。さすがに一時間も水見てたら、「恐怖」が触れるかもしれない。ちょこっとだけでも、ほんの一ミリだとしても、もしも俺に触れたら、その瞬間、あの時の全部が蘇ってくるかもしれない。
「お父さん!」
「うん。いってらっしゃい」
どうだ! と、着替えを済ませ、水泳帽に学校でも使っている紺色の水着を着た伊都。緊張が移らないように、余計な心配をかけないように、務めて笑って見せたけれど。
「お父さん?」
その時、もうすでにレッスンを受けたことのある子が真横を駆けて行った。ほんの少しだけ手がその子に触れた。ただ掠めただけ。それなのに――恐怖が。
「今日から入った、えっと……佐伯、いと、君」
「はい! 俺です!」
「おぉ、元気だね。宜しく」
伊都の元気で大きな声と、もうひとつ、落ち着いているけれど、はっきり聞き取りやすい優しい声、それに、目の前が明るく照らされる。
「コーチの宮野睦月(みやのむつき)です」
「……」
黒髪だけれど、水泳をやっているから? ところどころ茶色くも見える髪はまだ湿ってて、邪魔なのか適当に後ろに流してある。スッと通った鼻筋、大きめな口元は笑うと向日葵みたいだった。そして、目元をくしゃっとさせて笑う顔は、ほら、よく見かける。
「あ、息子がお世話になります」
絵本でよく見るお日様に描かれた笑顔にそっくりだった。
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