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第2話 チョコデラックス

 恐怖がすぐそこに来てた気がしたのに、あのコーチの笑顔と元気な伊都の声に慌てて、暗闇の中へと戻って行った。背中を丸めて、舌打ちでもしていたかもしれない。そのあと、一時間、俺は普通に見学することができた。 「ねぇ! お父さん! 俺、すごかった?」 「うん。すごかった。ちょっとびっくりした」  伊都が照れ笑いを浮かべながら、今日初めて自分の荷物を詰め込んだバッグをぎゅっと胸に抱えた。まだ髪の先から雫がぽたぽたと落っこちているっていうのに、更衣室を先に飛び出そうとするから慌てて捕まえて、ゴシゴシとタオルで頭を拭いた。その間も、今日、水に顔だけじゃなく頭から全部浸かれたこと、水中ジャンケンで二回勝ったことを話してくれる。頭まで水の中に潜ってしまうと、少しひんやりとしたけれど、気持ち良かったって、声が弾んでた。  俺もね、伊都、見学している間、恐怖が隣に座って、俺の手を、身体を、覆い隠してしまうことはなかったよ。  俺はそれよりも、伊都が頑張る姿を一時間応援することに忙しかったよ。 「へへへ」  伊都が笑って、俺も笑った。プールの後に笑えてた。 「はい。いいよ。あーでも! 伊都! 走らないようにっ!」 「はーい」  走りたいって、濡れた髪が伊都の一歩ずつに合わせて跳ねてる。 「あ、伊都、アイス食べる?」 「え? いいの? おやつ?」 「んー……」  商売上手。温水プールで一時間みっちりレッスンを受けた身体はヘトヘトで、外は灼熱、糖分も冷たさも同時に摂れるアイスはもってこいだ。そして、そんなアイスの自販機が更衣室を出てすぐの休憩所に、美味しそうな写真付きでこっちを誘惑してくる。  子どもは食べたくなるだろうし、親も頑張ったからと買ってあげたくなる。  だって、伊都は頑張っていた。初めての場所、知らない人ばかりの中、水慣れなんてしてない彼は一生懸命コーチの話を聞いて、挑戦してた。  コーチは三人、女性がふたり、男性がひとり。あの、レッスン前に挨拶をしに来てくれたコーチはメインの指導者なんだろうか。準備運動から、レッスンの指示も全て彼が出していたけれど。 「そうだなぁ。おやつとは……別、でもいいかな」 「! やったあああ!」  あまりに伊都が頑張ったご褒美を期待してるから、なんか、まぁいっかって。 「おー、よかったね。伊都君」 「あ! コーチ!」  伊都がどのアイスにしようかと迷っていた時、ちょうど、さっき教えてくれたコーチのうちのひとり、男性がやって来て、にこやかに笑い、伊都の頭を撫でる。  髪が濡れてた。もう着替えを済ませているけれど、濡れた髪はそのまま無造作に後ろへ流してるだけ。 「レッスン、あの、ありがとうございました」 「いえ、あ、えっと、佐伯さん」  ガラスで隔てられているから、俺には向こうの話し声も水の音も聞こえなかった。ただ元気なコーチが笑って、真剣な顔をして応援して、何かひとつできると一緒になって喜んでくれていた。  レッスン前に挨拶した時は弾んだような声だったけど、伊都を気遣ってくれていたのかな。今、彼の声はすごく落ち着いていて、ゆったりとしている。 「すみません。今、チェックしたら、伊都君レッスン休んだことになってて」 「え?」 「あ、メンバーズカード、スキャンしましたか?」 「え? あ、すみません」  そうだ。忘れてた。レッスン受ける前に初回だから説明があるって、受付の女性が言ってたっけ。 「忘れてましたっ! あの、どうすればっ」 「平気です。俺が、やっときます。スキャンのやり方聞きました?」 「あー、いえ」 「じゃあ、説明しますよ」  すっかり記憶から抜け落ちてた。というか、水のことばかりを考えてて、緊張してて、そこまで頭が回ってなかった。ただ、水着と帽子だけは忘れないように。それとタオルと着替え。そのことばかり気にしてた。  でもコーチは笑顔で、カードのスキャン方法を説明してくれる。  来たら、レッスンを受ける前に青く「レッスン前」と書かれたラベルのあるスキャナーの前にカードをかざす。終わったら、「レッスン後」と書かれた赤いラベルのあるスキャナーで同じことをして、それで、伊都がその日のレッスンを受けたかどうかわかるんだそうだ。急遽来れなくなってしまった時でも、そのスキャンありなしで判断がつき、そのままインターネットで代替えレッスンの申し込みができる。 「今日は、どこからいらしたんです?」 「あ、えっと、隣町の」  コーチが目を丸くした。そして、口元を隠しながら、くしゃっと笑った。 「あ、あの」 「すみません。お住まいじゃなくて」 「?」  普通にスポーツクラブへやってきたら、受付カウンターの前を通るはず。けれど、俺に説明をするはずだった彼女は待てども待てども、俺のことを見かけなかったって。だから、どこから来たんだ? プールのある場所まで。という意味での質問だったのに。 「あっ」  それなのに俺は自分の住んでるところを答えた。その言葉のすれ違いに気がついて、一瞬で頬が真っ赤になった。 「す、すみません!」  なんでか、俺たちがここに到着した時、大勢がどっと階段を下りてきたところだったんだ。それで、その人ごみの中を潜り抜けてプールまで行ったから、彼女には見えなかったと思う。そして、俺は別の気がかりなことで頭がいっぱいで、プールっていう単語だけしか思い浮かばなかったから。水が怖くないだろうかと、そのことばかり考えていたから。 「いえ、でも、だから、あそこで見学してたんですね」 「え?」  俺は更衣室のある廊下からプールを見学していたけど、え? 「プールは二階なんですけど、三階が見学スペースになってるんです。上から見られるんですよ」 「……ぁ」  どうりで。 「誰もいないから、なんでだろうって」 「えぇ」  コーチが笑って人差し指を上へと向けた。保護者は上で皆見てたんだって。俺はそこに行かず、ひとり更衣室まで見ちゃってたなんて。 「すっすみませんっ」  うわ、何してんだ、俺ってば。 「いえ、どこで見てもいいんですよ。別に」 「次からは上へっ!」 「そのほうがいいかもですね」  そりゃ、そうだ。何を廊下でひとり突っ立ってんだって思われる。もう全然ダメじゃないか。説明は聞きそびれるし、コーチに迷惑かけるし。 「すみませんっ! レッスン後でお疲れのところを」 「いえ、全然大丈夫です。それに楽しかったです」 「え?」  向日葵みたいだと思った。絵本に出てくる太陽みたいな笑顔だと。温かかった。そして、身体の中に巣くっている「恐怖」がその眩しい陽の光を嫌がって、もっと背中を丸めて隅っこに逃げていく。 「一生懸命、伊都君を応援しているお父さんを見てるの楽しかったです。教え甲斐がありました」 「!」 「って、失礼ですね。すみません。あ、アイス、チョコデラックス美味しいよ?」  ふわりと微笑む彼にもっともっと背中を丸めて縮こまって、もう舌打ちすら聞こえなかった。 「はぁ美味しかった。チョコデラックス」  伊都が車の中で満足満足と呟いてから、水泳で疲れた身体をグンと伸ばした。 「あのコーチ、良い人でよかったね、お父さん。なんだっけ、ナントカコーチ」 「宮野……」  恥ずかしいところを見られたから? それとも、さっき笑った顔が向日葵じゃなくて、絵本の太陽じゃなくて、向日葵みたいに明るく爽やかだったから? なんでだろう。 「宮野、コーチ、だよ」  運転している間も、その後も、ずっと脳裏に焼きついていた。

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