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第3話 ママ友も大好き、イケメンコーチ
前は営業職に就いていたけれど、まだ、あの当時二歳だった伊都を、突然、ひとりで育てないといけなくなった俺には営業職は無理だった。ありがたいことに会社はそのことを考慮してくれて、定時で上がることのできる事務仕事へと転属をさせてくれた。
二歳だった伊都は母親がいなくなったことで不安だったのかもしれない。俺の不安が移った……のかもしれない。麻美が亡くなった直後から頻繁に熱を出すようになった。だから、事務職へと転属させてもらえてすごく助かったんだ。
「あ、佐伯さん! 棚卸の台帳、一緒に確認してもらってもいいですか?」
ママ友、になるのかわからないけれど、同じ歳くらいの子どもがいる人と話ができるのもありがたい。
本当に突然全てをやらないといけなくなったから。
「藤崎さんの子、泳げる?」
「え? うち、ですか?」
中でも彼女、藤崎さんには一番助けられてる。同じ、今年小学一年生になった女の子がいて、そして、ひとり親。
「んー、うちは泳げますよ。あっ……」
水難事故で妻を亡くしたこと、伊都っていう同じ歳の男の子がいること、そして、水が怖いことも話していた。夏はどこか出かけるんですか? って訊かれて、山へ、って答えたところから、会話の流れで、海が、というよりも「水」が全て怖いんだと。
「うち、伊都は泳げなくて、スイミングスクールに通い始めたんだ」
「えーそうなんですか? ご近所の?」
「ううん、隣町の」
「え? なぜに隣町?」
ひとりで育てる、ということが関係あるかないかはわからないけれど、彼女は明るくて、少しだけ、男勝りでさっぱりとした人だった。
「それがさ……」
なぜ隣町のプールを選んだのか。
「あはははは、伊都君、可愛いいい!」
「笑うと怒られるんだよ」
それは大変だと口元を慌てて隠す彼女の隣でクスッと笑った。
あの当時は、こんなにゆったりとなんてできなかった。二歳の子どもをどう寝かしつければいいのかさえわからなくて、たまに始まるイヤイヤにこっちの気持ちも疲れてしまう。それでなくても転属したばかりの事務仕事は覚えることばかりで、頭がパンクしそうだった。
話すだけで、頷いてもらえるだけで、すごく気が楽になったっけ。
「伊都君ももうそんな歳なんですねぇ」
「あはは、藤崎さんとこだってそうでしょ?」
「そうですけど。なんか不思議ですよねぇ」
なんだか会話がご近所のママさんの集いみたいで、これはこれで不思議だけれど。営業のいた時は帰りなんて九時に家につけたらラッキーって感じだったから。
「先生とか厳しいんですか? うち、女の子だから最近すっごい生意気で。女同士だから舐められてるのかなぁと。ここでビシッと先生に精神から鍛えてもらうっていうのもいいなぁって」
「先生って、コーチのこと?」
学校では先生って呼ばれるけれど、スポーツクラブだと、トレーナーとか、コーチ。って、そっか、あの宮野コーチは先生でもあるのか。
「どうかなぁ。あんまり厳しくなさそうだったよ」
「そうなんですか?」
「うん」
俺より、歳はいくつか下なんだろうな。若い感じがする。俺は結婚早かったし、子どももすぐに授かったから、来年、三十の大台に乗る。でも、宮野コーチは……何歳くらいかな。
「女の人なんですかっ?」
「男性ひとり、女性ふたり。三人で見てくれるんだ」
「どんな感じなんです?」
あ、伊都に教えてくれてたのが宮野コーチだったからか、彼のことしか覚えてないや。他の人はどうだっただろう。でも、帽子被って、水着で、プールにいる時、それと話しかけられた時とで、すごく印象が違ってた。
――プールは二階なんですけど、三階が見学スペースになってるんです。上から見られるんですよ。
優しい人、だったのはプールの中でも、外でも同じだったけれど。
あぁ、そうか……背、というか、なんというか、間近で見た彼は、背が高くて、肩とか筋肉すごくて、事務仕事と家事育児でいっぱいいっぱいな俺とは、違ってて。
「美人コーチは! いましたか?」
「んー……どうだろう」
「じゃあ、イケメンコーチとか! いました?」
「え……ぁ」
彼の笑った顔を思い出した。
「いたっぽい! いいなぁ! イケメンコーチ」
うん……まぁ、イケメンって言えば、イケメン、かな。うん。
「ほ、ほら、藤崎さん。台帳合わせないと」
ママ友トークをしている場合じゃない。この数字の羅列を今日中に確認しないといけない。そしてそれを定時までに終わらせないと、学童の時間が延長になってしまうと、慌ててふたりとも机に齧り付いた。
「はぁ」
数字が目の前でぐるぐる、頭の中でもぐるぐる回っている気がする。
「お父さん大丈夫?」
「んー、今日、棚卸だったんだ。数字一日眺めてたから」
「なた……数字? 俺も、今日算数やったよ」
「できた?」
「難しかった。でも、お隣でやってた三年生の算数はもっと難しかった」
「へー」
口をへの字にして、さも難しそうな顔をしてみせる。自分は一年生、三年生になるとあんな問題と解けてしまうのかと、少し信じられないみたいだ。
三人で林檎をふたつ、平等に分けて食べるにはどうしたらいいでしょう。
でも、その問題を聞いて、俺もそんな難しいことをあと二年後の伊都は解くのかとちょっと不思議な感じがする。
つい最近、年長さんになったと思ったのに。ついこの間、卒園して、入学したと思ったのに。
本当に、一気に生活が変わる。小学校に入学してからしばらく、伊都も激変した生活に疲れていた。ずっと保育園で、育児として接してもらっていた先生と、学校の先生が違うから、最初の頃、少し戸惑ってたっけ。よくその頃、夕方になると少しワガママになったりしてた。もうこのごろはそれがなくなったけど、疲れてることは疲れてるらしくて、寝るのが早い。
今日も、学童のお迎えぎりぎりだった。延長代だって、削減できるのなら削減したいところで、ひとり親でサポートもあるけれど、やっぱりお金は……って、思いつつも、今、買い物にしにやってきてるのは近くのコンビニで、ちょっとお高い品物の中でどうにか安いものを、と探して迷っている。
「なぁ、伊都、今日、野菜炒めと、コロッケ、どっちがいい?」
「んー……どっちでも」
短期とはいえ、スイミングスクール代もあるんだし、お金節約はしたい。今日はコンビニのカット野菜か、千切りキャベツのお世話になろうかな。
「んー、じゃあね」
野菜炒めのほうが肉なら家にあるし、安上がりなんだけど、このカット野菜一袋だと少ないんだよ。かといって、ふたつはいらないし。余ったのとって置いても冷凍できるわけじゃないし、キャベツの色変わるかもだし。
「んー……野菜炒めにしようか」
野菜ふた袋に肉少なめにして、って、伊都に聞かれたら、肉多め! なんて、ブーイングされそうだから、胸のうちだけで呟いて手を伸ばした。
「あ、すみません」
「ごめんなさい」
横から伸びてきた手とカット野菜の前で衝突しかけて慌てて、お互いの手を引っ込めた。
「あぁー! コーチだっ!」
慌てて謝って、そして、伊都の声に顔を上げた。
「あ……」
そこには同じように顔を上げる、その人がいた。
「宮野コーチ……」
俺がそう呼んだら目を丸くした。プールの水色に囲まれてる時にも、その後、まだちゃんと水をふき取らずに追いかけてきてくれた時にも気がつかなかった。彼の瞳がずいぶんと茶色なことを。
「佐伯さん、伊都君……あ、えっと」
それと、私服の彼は体型のせいもあるのか、モデルみたいだ。
――じゃあ、イケメンコーチとか!
「こんばんは、佐伯さん」
カッコいいモデルみたいだと思った。
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