「びっくりした。すごい偶然ですね」 「あ、はい」 　くしゃっと笑った顔は昨日見た宮野コーチなんだけれど、髪、乾いてるからか印象が違う。 「佐伯さん、お近くなんですか？　あ！　いや！　プライベートなんで答えなくても」 　当たり前だけど、乾いた髪に、乾いた服、着てる。 「近いよ。うち、すぐそこ！　ここから歩いてちょっとだよ」 　俺が答えるよりも早く伊都が元気に答えてくれた。きっと、スクール的に生徒のプライベートにはあまり関わらないようにしているんだろう。そういう決まりごとなのかもしれない。聞いちゃったって、宮野コーチが申し訳なさそうに眉を下げた。俺は別にコーチに教えたくないとかそんなのないし、男所帯で何も心配いらないからいいんだけど。 「あ、本当に近所なんです。うち、ここから目と鼻の先っていうか」 「そう……なんですか」 「ええ、すぐそこです」 「うちも近所なんです。本当に、すぐそこで」 　笑顔のよく似合う優しい人。だからかな、優しくしたいというか、自然とこっちの気持ちが和んでいく。 　住んでる場所をコーチに教えたくないと思われたくなくて、急いで説明を付け加えた。 「コーチ！　コーチ！　コーチも今日の夕飯野菜炒め？」 「あー、うん」 「うちも！」 「こら、伊都、コーチの買い物の邪魔だから」 　伊都がはしゃいでた。プールで一回しか教えてもらってないけれど、その場所でしか会えないはずの大人に会えて、ちょっと楽しそうだ。算数で頭使ってヘトヘトなことも、学校で一日走り回って疲れてることも、「コーチ」の登場に吹き飛んでる。 「大丈夫ですよ。俺はまだ迷ってるんだ。伊都君ちは野菜炒め？」 「うん！」 「そっか。うちはどうしようかなぁ。野菜炒め美味しいけど、これだとちょっと多いんだよ」 　そう言いながら、カット野菜の袋を手に取った。 「あっ！　あの！」 　自分でも、びっくりした。 「あ……えっと」 　自分の行動に、ものすごくびっくりした。 ――ご近所なら、その、野菜炒め、半分、いかがです？ 　そう言いたいと思ったことに心臓が止まるほど驚いた。 「えっと、あの」 「うちも野菜炒めなんだよ。コーチ、うちで食べる？」 「ちょ！　伊都！」 　小学一年生の子どもが嬉しそうに言っただけ。でも、俺は同じことを大人なのに言いたいと思ったせいで、ものすごく慌ててしまった。 「ありがとう。でも、伊都君、パパとたくさん食べな」 「はーい」 　伊都が笑顔で素直にそう返事をするのを見ながら、ほんの少しだけ、ほんのちょびっとだけ、気持ちが下を向いた。 　当たり前だろ。ほぼ初対面の人に夕飯一緒にどうですか、なんて。そりゃ断るだろ。俺でも断るくせに、何やってるんだ。なんで、少しだけ残念になってるんだ。別に向こうにしてみたら、ただのスイミングスクールにやってきた子どもと、その親なのに。 「すみません、引き止めちゃって」 「いえ……」 　カット野菜が余るからうちに食べに来ませんか？　なんて、なんで言いたいと思ったんだ。 「ほら、伊都」 「はーい。コーチそれじゃあねぇ」 「バイバイ、気をつけて」 　手を振る彼へ丁寧に会釈をして、カット野菜をひとつだけ手に取った。余るともったいないから。もし、足りない気がしたらソーセージか卵を追加すればいい。 　カット野菜と、あと、牛乳も買って、そして、車に乗り込んで溜め息をひとつついた。 「お父さん、びっくりしたね。コーチに会うなんてさ」 「うん……びっくりした」 　ホント、すごくびっくりしたよ。まさかここで会うなんて。 「さ、早く帰ろう」 「はーい」 　こんな偶然あるんだな。すごいタイミングだろ？　彼がスポーツクラブから出てくるのが五分遅かったら、もしも、台帳の確認に時間がかかって学童が延長になっていたら、いや、伊都が帰りの支度をほんの少しでもゆっくりやっていたら。そして、いつもはスーパーで買い物するのに、今日は疲れたからとコンビニで済ませていなかったら。 　あの瞬間、彼には会わなかった。 　全部が全部、ひとつでもズレていたら、あそこで同時に手を伸ばすことはなかった。 　そのものすごい偶然が俺に変なことを言わせようとした。一緒に夕飯どうですか？　って、あの瞬間、伊都と同じように彼を夕飯に誘おうと口を開きかけたんだ。 　でも、言わなくてよかった。言ってたら、やたらと馴れ馴れしい保護者じゃないか。 「伊都、宿題は？」 「教室でやったよ。友達と」 「そっか。はい、着いたよ。降りる時、飛び出さないように」 　もう何百回も言っているのに、それでも飛び出す勢いで車から降りるから、慌てて俺も車を出る。後部座席に置いたコンビニの袋を取って、伊都を追いかけようと思った時、急に伊都が大きな声をあげた。 「こら、伊都、静かに」 「……え？」 　住宅地、うちのマンションの手前にもアパートがあって、その隣もアパート。くねった小道の途中にある自宅マンション脇の駐車場を車を停めた。細い道で中央線もなければ歩道は線を引いてわかるようにしてあるだけ。それなのに、住宅地だからなのか車の通りは激しくて、ちょっと伊都をひとりで遊びに出かけさせるのは戸惑ってしまう。 「あ……」 　うちのマンション手前のアパート。 「コーチー！」 　そこに自転車を停めた人に、今日、二度目の大きなびっくり。 「あ、えっと、佐伯さんち、ですか？」 　彼が指差したのは駐車場の奥に立っている三階建てのアパート。 「うち、こっち、です」 　そして、彼の背後には単身者用の二階建てアパート。 「コーチ！　こっちだよ！」 「え？　伊都君？」 「ちがっ！　伊都っ！」 「うち、一階なんだぁ。おいでおいで。こっち、おいで」 　伊都が勘違いするほど重なった偶然。きっと、一緒に夕飯を食べるから、自分たちは乗ってきた車で、コーチも自転車で後ろを追いかけてきてくれたんだと、そう思ってる。嬉しそうに手をヒラヒラさせて、早くおいでよとコーチをせかしてる。自分の家へ訪れた目新らしい大人に目を輝かせてる。 「あ、えっと、あの、もし、よければ、うちで夕飯食べてきませんか？」 「え、でも……」 「うち、伊都がもう勘違いしちゃってるし。その、ご迷惑でなければ、どうぞ」 「ぁ……じゃあ、これ」 　彼が差し出したのはカット野菜の袋。 「ねぇ！　コーチ、ほら、俺、もう宿題終わってる！　算数！　なんかね。三年生になると、すっごい難しい問題とかできるんだって！　だから、俺も頑張ろうと思って」 「へぇ、どんな問題？」 　彼が伊都の話に返事をして、返事をされたからまた話して、会話になって、伊都が自然と手を繋いで家へと招いてる。早くここに入れといわんばかりに開けっ放しの扉から差し込む光に、彼の笑顔が照らされた。 「すげぇ難しいの。えっとね」 　すげぇなんて、家では使わないのに。きっと学校じゃ男の子は皆、使ってるんだろうな。 「三人でふたつの林檎をびょうどーに食べるにはどう分けたらいいですか？　って。でも、俺！　わかっちゃった！　答え！」 「すごいね。伊都君」 　おおらかな彼の笑顔はとても心地良い。子どもにも大人にも好かれているんだろう。 「仲良く食べる！」 　そんな彼が殊更優しく笑った。 「おお。伊都君、天才」 　笑って、その笑顔を眺めている俺をチラッと見て、お邪魔しますって顔で小さく会釈をした。その瞳はとても綺麗な澄んだ茶色で、琥珀みたいだなって。そう思ったら、なぜか、心臓がトコトコと慌てているような気がした。