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第5話 いつも

「なんか、すみません」  伊都がワガママを。  いきなり夕飯ごちそうになっちゃって。  そんな言葉がふたり分の声が重なった「すみません」の後にそれぞれ続いた。  ふたりして同時に謝って、ハモった謝罪にバチっと音がしそうなほど目が合って、ちょっと照れ臭くて笑った。  野菜はカットしてあるから、俺は解凍したお肉を炒めてて、コーチは伊都と一緒に配膳の準備。 「こちらこそ、カット野菜、使わせてもらって」 「全然かまいません。あそこのって、大入りなのは嬉しいけど、ひとり身だとあんなにはいらなくて」 「うちだとひとつじゃ足りなくて」  だから、お互いにちょうどよかった。と、話がまとまった。伊都はさっきからはしゃいでた。帰り道じゃ疲れたと眠そうにしてたのに、目を輝かせて、突然の訪問者に大興奮だ。あの様子じゃ、寝かしつけるの大変かもな。あぁ、でも、逆に、はしゃぎすぎて、スイッチが切れたように眠るかな。 「あの……佐伯、さん、……って」 「あ、はい。俺、シングルファーザーなんです。伊都が」  このことを話す機会は少なくない。俺はその度に悲しい気持ちがこみ上げてきてたっけ。でも、悲しみって時間が経つと薄れていくんだ。感情の色は少しずつ時間をかけて、日に当たったポスターみたいに褪せていく。 「伊都が二歳の時に海で。海水浴をしてた時に、波にさらわれたんです」  今はこうして話すこともできるようになった。話す度に悲しみが外に吐き出されるみたいに、ぐしゃぐしゃに丸まった紙みたいな悲しみが、ゆっくり少しずつ広がって皺が伸びていく感じ。一度ついてしまった皺は完全になかったことにはならないけれど、それでもたしかに今はフラットな一枚の紙に戻れた。  男一人で育てるんじゃ大変でしょう? あら、それはお気の毒に。ごめんなさい。余計なこと聞いちゃったわね。  話す度に返ってくる言葉に苦笑いをこぼして、ありがとうございますって挨拶をする。別に男でも女でも、決心なんてする暇もなく突然ひとりで育てることになったら、大変だろう。ふたりで育てるのだって、その都度、その都度、大変だったし。  妻を亡くしたと話すと、気の毒にって悲しい顔。でも今からそんな顔をしたってもう遅い、つい数秒前はすごく興味津々って顔をしてたじゃないか。そう感情がささくれ立ったこともあったけど。 「そうだったんですか……すみません。悲しいことを伺ってしまって」 「……いえ」  不思議だ。返ってきた言葉は他の人のそれとさして変わらないのに、時間が経ったから? それとも、部屋で見るこの人の茶色い瞳がプールで見かけた時みたいに濡れて艶めいて、すごく悲しそうだから? ほんの少しもイヤな気持ちにならなかった。 「そのせいで、俺、水が怖くて」  この人といると驚くことばかりだ。このことは、自分から話したことがなかった。会社の藤崎さんにも社員旅行を断る時に言い出したんだ。伊都のことがあるから行けないと言ったら、子連れで大丈夫だから、一緒に行こうと誘われた。きっと彼女もシングルマザーだから同じ境遇の俺がいれば少なからずホッとできたんだろう。でも、俺は大浴場に入れる自信がなかったから、断ったんだ。水が怖いんですって、その時告白した。それくらいで、水が怖いことを自分から言い出したのは、今、これが初めてだ。 「伊都を海はもちろん、プールとかにも連れて行ったことないんです。泳ぎを教えてあげられなくて、でも、もう小学生だから」 「それで……」 「コーチ! 来て来て! 俺のランドセル見せてあげる!」 「伊都、コーチは」  お仕事後で疲れてるよ、と言うよりも早く、彼は伊都に誘拐されてしまった。手を引かれキッチンを連れ出される彼の笑った横顔をなぜかじっと見つめてしまった。  私服になると少し若く見えた。濡れてない髪はサラサラしていて、プールで見た時よりも茶色かった。そして髪と同じくらいに茶色い瞳はとても綺麗だった。  イケメン……かぁ。うん。たぶん、イケメンだ。藤崎さん含め、事務所の女性スタッフはちょっと嬉しくなるかもしれない。俺は――。 「あ、佐伯さん、大丈夫です?」 「え? アッ! はいっ!」  ひょこっと顔だけ覗かせた彼にびっくりした。手が、止まってた。その間に野菜炒めは焼けていて、少しだけ、ほんの少しだけ焦げてしまった。  夕飯をごちそうするだけだったのに、彼を送る頃にはどっぷり夜になっていた。もうこれじゃ、彼はお風呂に入ってすぐに寝ないと、だろうな。体が資本の仕事なのに、もう十時近くだ。  外に出ると、夏の暑さは落ち着いて、風が気持ち良かった。これなら、今日は窓開けるだけで充分かもしれない。 「なんか、本当にすみません」  緊張したのかな。人に食べさせるのなんて初めてだったから。いつもどおりに作ったんだけれど、あまり美味しくできなかった。少し焦げたけれど、それはあまり気にならなくて、ただ味がそもそもイマイチだった。 「美味しかったです」 「いえ、いつもはもう少し」  って、負け惜しみというか、弁解というか。 「それに、ホント、お疲れのところをこんなに遅くまで」 「全然、伊都君楽しそうで嬉しかったですよ」 「すみません。いつもはもう少し、落ち着いてるんです」  伊都はぴったりくっついて離れなかった。優しくて明るくて、カッコよくて、憧れが混じった瞳はずっと彼を追いかけていて、ご飯もつられるようにたくさん食べてたっけ。 「知ってます。伊都君、俺の話をしっかり聞いてくれてました。初めてのレッスンだからっていうのもあるだろうけど、でも、伊都君は聞くの上手でしたよ」 「ありがとうございます」 「俺こそ、すみません。まだ一回しかレッスン受けてない生徒さんのうちに上がり込んで、夕飯ごちそうになっちゃって」 「いえ! 材料費はっ」  そうなんだ。まだ、彼とは親しいわけでもないし、何も知らないのにうちにあがってもらって、夕飯一緒に食べて、今、外を一緒に歩いてる。たったの数歩。住宅街にある中央線もないような道を隔てた向いのアパートまでだけれど。 「すごい偶然でびっくりしました。ほら、この前、隣町から来てるっていうのは言われたからわかってたんですけど、住所まではコーチ陣は知りませんから」 「ですね。すごい偶然」 「どこかで会ったこととかあるかもしれないですよね。佐伯さんと」 「……はい」  風に揺れる彼の髪は柔らかそうだった。 「俺、てっきり奥さんがいるんだと思いました」 「あ……」 「あ、いや、なんていうんだろ。なんか……あぁ、どう言っても詮索してるみたいにしかならないけど、でも」  その髪を彼がぐしゃぐしゃと掻き乱してしまった。やっぱり水泳をやっているからか、すごく短く切ってある爪、指先は丸くて、骨っぽくて、力強い。 「でも、俺がしっかり泳ぎ教えるんで」  この手はきっとどんな荒波でも越えて、泳いでいける気がした。 「えっと……なので、安心して見ててください」 「あ」  彼の笑顔も違って見えた。あのプールで子どもたちと水しぶきの中笑っている彼と、今、月明かりとなんとなく灯る街灯の明かりに照らされた笑顔は。 「ありがとうございます」 「ここでいいですよ。なにせ、うち、すぐそこなんで」  彼が指差した方向には単身者の用のアパートがあるだけ。つまり、彼は結婚はしていないってことだ。彼女くらいならいるかもしれないけれど。どうだろ。食事の最中、人が作ってくれたご飯をこうして食べるのはすごく久しぶりだって、言ってた。いつもは自炊か、外食か、あとはたまに帰る実家のくらい。そう言ってたってことは、彼女も、今はいないのかもしれない。 「おやすみなさい」 「あ、はい、おやすみなさい。今日は、伊都のことありがとうございました」  笑ってた。彼がくしゃっと笑って、小さくお辞儀をしてから道を渡る。その後姿を見送りながら、部屋入るところを見たらダメかな、とか、でも、ちゃんと見送ったほうがいいよな、とか、色々考えて。もう寝てる伊都のことも心配だから帰ろうと思って。  ふと振り返った。 「……」  彼の部屋は二階みたいだ。部屋に入る直前、扉の前でこっちへ視線を向ける彼と目が合った。見えるのかな? 見えないと思うけれど、笑いながら、小さくお辞儀をした。  いつもは伊都とご飯を食べて、風呂入って、九時には寝る。それが「いつも」の一日。でも、今日は違うことがたくさん起きて、たくさん驚いて、伊都が寝たのは十時少し前。俺もいつもより夜更かしだ。 「ふぅ」  いつもと違う夜に、心臓がトクトク小さく音を立ててた。

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