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第6話 彼の笑った顔

「伊都! 歯、磨いて! あー! ちょっと待って、洗面所行くんならこれ持ってって!」  いつもと違う夜に、俺も、伊都も、少し興奮してて、少し夜更かしで、そして。 「お父さーん! アサガオに水あげたら、濡れた!」  思いっきり寝坊した。 「えぇえ? 何やってるんだよ。もう。着替え自分で出して! タンクトップじゃダメだからね!」 「はぁい」  伊都の呑気な返事とは正反対に俺は一分一秒を争う忙しさ。そうだ、天気確認しないと、この時期夕立もありえるから、外に洗濯物を干しっぱなしで一日家を空けるのはけっこう賭けに近い時がある。  仕事をしている俺は、今、夏休み中の伊都を学童に預けないといけなくて、学童は給食がないから、お弁当を作らないといけなくて。だからソーセージを、昨日、野菜炒めに使わずにいたソーセージを。 「……」  昨日、夕飯完売だったな。あんまり美味しくなかったのに、食べてくれた。っていうか、うちに、いたんだ。 「お父さぁん! 着替えたぁ」  彼が。 「! は、はぁい! 伊都! 行くよ!」 「うーん」  ふたりで玄関に飛び込むように雪崩れ込んで靴を履いて、そして、ゴミ袋を忘れたことを思い出し、俺は慌てて部屋へ戻る。ゴミの袋を鷲掴みにして玄関でもう一度靴を履く。伊都が先に出で、鍵をかけて、ゴミ出して、八時五分前。これなら大丈夫だ。間に合う。 「あ、コーチだ」  伊都の呑気な声に飛び上がってしまった。 「お、はようございます」  そして、宮野さんを見つけた。ちょうどアパートの階段を降りてくるところだった。昨日もそうだけど。 「昨日そうだったけど、引き続き、すごいタイミングですね。ちょうどだった」  同じことを彼も思って、笑って、少し頬が赤いから、きっと俺も同じように赤いんだろう。 「もしかしたら、けっこう朝、ばったり会ってたかもしれないですね。って、ゴミ、持っていきましょうか?」 「え? あ、えっと」 「いいですよ。俺、向こう行くし」  ゴミ置き場はマンションの脇にある。そして車のある駐車場はマンションの敷地内。ゴミを出して、戻って車に乗り込まないといけない。たぶん、間に合うだろうけど、時間が読めないっていうか、朝起きたところからずっと急いでいるせいで、どこか身体はこの焦ったペースのまま戻れなさそうだった。 「夕飯いただいたんで、このくらい手伝います。仕事、いってらっしゃい」 「……ぁ」 「いってらっしゃぁい!」  うちのゴミ袋なのに笑顔で持ってくれた。そしてその脇にはリュックを背負った伊都がいて、手を振っている。どちらも笑顔で楽しそうにこっちへ手を振ってくれている。なんだか不思議なその光景に手を振り返していた。 「普通は、しないかなぁ」 「だよね」  俺もそう思うんだ。昨日はなんか変にテンション高くてふわふわしてた。朝は、その続きでふわふわしながら慌しくて、会社に来て、デスク座って、水筒のお茶を飲んだら、すごく、ものすごく「あれ?」ってなった。  普通、スイミングのコーチと偶然あったからって、ご飯どうですか? なんて言わないよな。色々重なったとしたって、普通は挨拶して、アハハで終わる。冷静になればなるだけ、昨日の自分は少しおかしかった気がしてくる。 「でも、そんな偶然ってあるんですね。すごい偶然が重なってるから、ちょっと楽しくなりますよね」 「うん、俺も驚いた」  藤崎さんに話しながら更に冷静になっていく。冷静に落ち着けば落ち着くほど、昨日のことが夢の中で起きたことのように思えてくる。いつもよりも少し慌しかった朝に、昨日の夢の欠片が残っていたみたい。  たしかに一緒にいて、野菜炒めを食べて、話をしたのに、どこか現実味がない。ついこの間まで赤の他人で、朝、同じ時間に家を出たとしても挨拶ひとつ交わすことのなかった人だったのに。 「ホント……こんなことってあるんだね」  食事中、伊都と水泳の話をしてたっけ。顔を水につけるのがすごく上手だったって褒められて、見てる側にとても伝わるほど伊都が表情を綻ばせた。たくさん泳げるようになると思う、あんなに早く水の中に潜れたんだ。泳げるようになるのなんてあっという間だ。そう言ってくれる彼の声はとても頼もしかった。 「そのまま急接近、なんてあるかもですよ」 「あはは、あっても何もないよ。男の人だし」 「男の人なんですか?」 「? そうだよ。宮野睦月。名前が今風だよね。男女の区別がない感じで。伊都も女の子で通用しそうな名前だし、藤崎さんとこもそうでしょ?」 「えぇ、なんだぁ」 「なんで? ダメだった」 「ダメじゃないけど。ほら、シングルだと再婚ってしにくいでしょ? 佐伯さんが希望の星っていうか。私もいつか! とか、思ってみたりして」  藤崎さんが残念そうに小さな溜め息をひとつ零した。  睦月、っていう名前だからか、とても月明かりが似合う人だった。プールにいる時は大きな口を開けて笑う絵本の太陽みたいだったのに、あの、いつもの「宮野コーチ」じゃない夜の横顔。あの笑顔を思い出すと不思議な高揚感を感じる。  あれに似てる。海に行ったのは数日前なのに、ポケットの中に手を突っ込んだら、指先に触れる砂みたい。触っただけで、あの日、楽しかったなぁって思い出す。 「ただ、すごく」 「……佐伯さん?」 「すごく、楽しかったよ」  不思議だったけれど、驚いたけれど、この言葉が一番、昨日の夜はどんなだった? っていう問いに合う答えだ。彼と食べた夕飯は楽しかったから、少し名残惜しいと思ったんだ。  それから三回、朝、彼と玄関先で出くわした。一度、遭遇しない日があった。  本当は八時五分前に家を出たいけれど、五分くらいなら余裕があるし、夏休みで道はやっぱり空いていたから、数分なら遅くても大丈夫。この前は、忘れてしまったゴミ袋を手に持って玄関を、今度は飛び出すまで、一分くらい?  二分かな。  測っていなかったから、どのくらいかわからないけれど、たぶん数分はいつもよりも出るのが遅かった。  今もその数分を作ってる最中。  とりあえず朝食で使った食器を洗って、カゴに立てかけるのではなく、洗って拭いて、棚にしまうまでやるようになったりして。  そうやって朝出勤すると、ちょうど彼も二階から降りてくるところだったり、すでに自転車の鍵を開けていたり、玄関から出てくるタイミングだったり。もう金曜なんて、伊都が待ち受けていたくらい。だから、次、いつか遭遇しない日があったら、伊都が会えないのかとむくれそうだ。 「お父さん、見ててね」  今日はスイミングの日。 「お父さん、上から見てるからね。伊都、頑張れ!」  階段から手を振ると伊都がガッツポーズを見せた。 「うん!」  だから今朝は挨拶しなかった。仕事が休みだから、朝、あの時間に外に出る必要がない。ほんの少しだけ寝坊して洗濯物と掃除を済ませ、買い物には明日のスイミングのあとにでもいけばいい。  伊都はずっと朝会ってたコーチにまたここで会えて嬉しそうだった。まだ一度しか来ていないのに、伊都の中で彼はご近所さんで、自分の憧れで、友達で、コーチ。初回の緊張なんてどこへやらだ。躊躇うことなく頭をすっぽり水の中に入れいている。そして、あがってきた伊都へ彼が爽やかなお日様みたいに笑ってる。  子ども人気すごいなぁ。  皆が彼に褒めて欲しいと何かひとつ水中ゲームをこなす度に顔を向けてた。皆が、彼の笑いかけて欲しいって、そう思ってる。 「!」  ここは、三階。  彼が顔を上げて、こっちを見て笑った――ように見えたけど、気にせい? だよな。だって、わざわざこっちを見るなんてこと。 「!」  彼が水から顔を出したばかりの伊都の肩を叩き、こっちを指差す。伊都は言われるがままに顔をこちらへ向けて、手を振ってくれる。そんな伊都の後ろに立ち、水の中からこっちへと微笑んでくれた表情は月明かりみたいに優しかった。

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