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第7話 なんなんだろう。

 彼に見てもらいたくて、皆が自然と視線を向ける。でも、そういうのわかる気がする。彼が太陽のように笑ってくれたら、嬉しくなる。  そして、あの、もうひとつの優しい笑顔。プライベート仕様っていうのかな。今、プールの中で子どもに声をかけ続ける彼とは違う、静かでゆったりとしてて包み込まれるような優しさを持った笑顔。あれは、少しズルいよ。なんでかはわからないけれど、ズルい、と思った。  そう、わからないんだ。どうして俺は、彼の笑顔に胸が躍るんだと思う?  レッスンを一回してもらっただけ、しかも自分じゃなくて、伊都がレッスンを受けた。俺は全然関係ないのに、あの時、ほんの少し言葉を交わしただけなのに、コンビニで遭遇した時、俺はなぜか、もっと話したいって思ったんだ。  あの晩、すごく楽しかった。いつも適当に作ったってどうにかなってしまう野菜炒めを緊張から失敗してしまうほど、浮かれてた。  思い出すと自然と顔が綻んでしまうくらいに楽しかった。 「お父さぁぁん」  レッスンが終わって、子どもを迎えに下へとおりる。扉が開いた瞬間、飛び出してくる子どもたちと出迎える親とで、扉の周辺は大混雑だ。 「伊都! そこで待ってな。滑るから」  そう声だけかけて、混雑が落ち着くのを待っていた。 「伊都君、ここで少し待ってから行くといいよ」  そう言って、人が出ていくとつられて慌てそうになる伊都のことを落ち着かせてくれる。別に、伊都が特別小さいわけじゃないのだから、ここで吹き飛ばされる心配もないんだし、おいでって言えばいいのかもしれないけれど。  俺は、もっと話したいって思ったんだ。 「お疲れ様ー!  また次のレッスンでね。おお、バイバーイ。お疲れ様でしたー!」  彼の、宮野さんの横を通り過ぎる生徒ひとりひとりに笑顔を向ける。ずっと笑顔じゃなくて、表情をひとりずつ、それぞれに向けるんだ。その子がどれだけのことを今日頑張ったのか、ちゃんと見て、褒めて、たまに励ましてた。自分のことをこんなふうにちゃんと見てもらえて、嬉しくならない人なんていないだろ。  もっと話したいって思ってしまうだろ。  だから、少しだけ、伊都を待たせてしまった。最後なら、あの、人の波の中で向けられる一秒あるかないかの言葉ひとつじゃなくて、もっと長く話せないかと、そう思ってしまった。 「今日は上で見学されてたんですね。ここ、ちょっと探しちゃいました」  皆の声がどんどん遠くなっていく。ここに残っているのは、俺と伊都と、宮野さんと、残りふたりのコーチだけ。さっき、レッスン直後はとても賑やかだったのが嘘みたいに、彼の声がとてもよく響いてた。  髪が湿ってる。帽子をしていたけれどわずかに濡れて、その分だけ重たげだ。そして、水の雫がツーっとこめかみを伝って、顎から滴り落ちた。もうない雫を手の甲で拭って、彼がこっちを見た。  目が合って、体がきゅっと身構える。何に俺はそんなに緊張するんだろう。 「……はい。あ、けっこう見学多いんですね」  彼と話していると何かが躍る。またあの人は迷っているんじゃないだろうか、とか思われただけのことなのに、彼が俺を探してくれたことに、少しだけ感動するのは、なんなんだろう。 「コーチが、お父さん上にいるねって教えてくれたんだぁ」 「うん。見てた。すごいじゃん。ケノビ、できてた」 「うん!」  伊都が頬を染めて、自慢気に胸を張ってみせた。 「泳げないんじゃなくて、泳いだことがないだけだから、教えて、少し自分でやってみて、コツが掴めたら、全然問題ないと思います。運動神経、良いですし。逆上がりができるって教えてくれました」  話しながら、彼の動きひとつひとつに、なんで、胸がちょっとせわしなく動くんだ。 「佐伯さんも運動神経はいいんですか?」 「あーどうだろう。普通、かな」 「そうなんですね。よかったな。伊都君。この夏休みで泳げるようになるよ。学校でもプールあるんですよね? いつぐらいなんです?」  間に合うかな、って、少し眉を寄せて、口をへの字にした宮野さん。考えてる素ぶりの彼に、伊都がもう大丈夫だもんねと主張した。学校のプールは週に一回。学童に預けているから、プールにはその学童の教室から直接通うことになっている。先週には雨でなくなった。次、もし晴れたらあるだろうけれど、そこでケノビまではばっちりできる。 「大丈夫! もう、俺、滑れるもん!」  そう言い切った伊都に笑ってくれた宮野さんは太陽みたいな笑顔だった。 「明日もレッスン受けるんですよね?」 「あ、はい。伊都、宜しくお願いします」 「よし! 伊都君! 頑張ろう!」  大きな手を目一杯広げると、伊都が彼の手にハイタッチをした。パチンと相手が小さな手だからなのか、可愛い音を立てた。 「お疲れ様でした。佐伯さん」 「……あ、ありがとうございました」  今、向けられた笑顔はふわりと穏やかで、月明かりみたいに優しかった。その笑顔が見れて、嬉しいって思うのはなんなんだろう。 「お父さん?」 「うん。着替えて、帰ろう」  あぁ、行ってしまったなって、少しだけ、ほんの小さな砂粒ほど、そんなことを思った自分がいた。  翌日の練習でも同じだった。 「ケノビ、すごいぃ? お父さん」 「すごかった。学校のプール。楽しみだね」 「うん!」  伊都がリビングのクッションを足の辺りに置き、バタ足をして見せながら、宿題ノートをビート板の代わりにして、泳ぎを再現してくれていた。  ケノビ、だけじゃなくバタ足もできるようになった。毎回難易度が上がっていくけれど、伊都はそれを毎回ちゃんとクリアしていた。  昨日は話せた。今日は、他のコーチが送ってくれて、宮野さんはもうひとりと次のレッスンで使うものをプールにセットしていた。大きな遊具。滑り台だ。運んでセットするのに、宮野さん以外にいるふたり女性コーチに任せるわけにはいかないから。  だから、話すことはできず、見学中に一度上を見て笑っただけだった。 「……」  って、なんで少し残念なんだ。自分で自分に突っ込み入れて、そして、洗濯物をたたむ手を慌てて動かす。 「お父さん?」 「! ごめん。なんでもないよ。ケノビ、もう一回見せて?」  せっかく泳げるようになってきた伊都をもっと励ましてやる気充分にさせようと、陸で泳ぎの再現を頼んだ時だった。ピンポンって、一度鳴って、心臓が真っ先に返事をした。 「は、はい」  ここを訪れる人はそう多くない。両親とか、あとは――。 「夜分、にすみません。こんばんは」  あとは、先週、とても久しぶりに現れたお客さんくらい。 「こ、こんばんは」  そこにサラサラな髪をした宮野さんが、立っていた。  

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