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第8話 感じるまま

 もっと彼と話したいと思ったんだ。「夜分、にすみません。こんばんは」そう挨拶をして、照れ笑い? 苦笑い? 眉を少し下げて頬を指先でカリカリと掻く彼と、もっと、話がしたいと。 「あー! コーチだ!」 「あ、伊都君、こんばんは」  その彼が突然現れた。あの道の向こうの二階の扉を開けて、歩いて数歩進んだ先にある、うちへと来てくれた。ただそれだけで、なんで、こんなに嬉しいんだろう。何を心臓は勘違いをして慌てているんだろう。彼も俺と同じように話がしたくて、それで来てくれたみたいに、思っている。胸が勝手に躍ってる。  そんなんじゃないよ。ありえないだ。だから、そんなに――そんなに? 何? 何がありえないんだ? 「これ、渡そうかと」 「……え?」  差し出されたのは一枚の紙。 「今週末からお盆休みじゃないですか。その時期に毎年やってる集中レッスンなんです」  水泳だけじゃなくて、体操のほうもあるらしい。一週間を半分に分けて、前半希望と後半希望に分けて参加を募っていた。三泊四日でスポーツクラブが提携を結んでいるらしいキャンプ場でキャンプファイヤーとかイベントを開催しつつ、寝泊まりと練習はいつものジムで行う。夏のイベントって感じなんだろう。生徒もコーチも泊まり込みで楽しそうな写真が一緒に載っていた。 「これ、どうかなって、思って。まだいくらか空きがあるんです。でも、お盆休みってやっぱ忙しいかなって思ったんですけど」 「わざわざこれを届けに?」 「もう来週の話だから、次のレッスンに渡したんじゃ急すぎてダメだろうなって」 「それに、あの、これって」  多分だけど、俺たち夏季集中レッスンだけを受講している生徒は対象外なんじゃないのか? だって、申し込み期日は随分前、7月の中旬だ。うちがレッスン受講を決める前に募集打ち切られている。 「でも、まだ空きがあるから、部長に聞いたら、余らせるより、いるのなら参加してもらえって」  なんか、「部長」って言葉を彼の口から聞くのが面白い。スポーツジムでも部長とか、課長ってあるんだ。スーツにネクタイ、シャツ、なんて格好で仕事はしないだろうから、不思議な感じがするな、なんてことを考えてた。 「あと、これ、小学生低学年までは親の同伴がないとダメなんです。佐伯さん、来ないと、なんですけど」 「……ぁ」  少し彼の頬が赤い。まるでのぼせたみたい。そして、いつも真っ直ぐ人を見つめる彼が俺の斜め脇辺りをじっと見つめている。照れているような、困っているような、緊張、してそうな顔をしている。あんなにしっかりハキハキと人と話せる彼が、不安気に言葉の最後を濁してる。 「佐伯さん、無理、です?」  なんなんだろう。彼が、緊張しているのなら嬉しいと思ってしまうのはなぜなんだろう。俺を合宿に誘っているって、そう思ったら、胸がこんなになるのはどうしてだろう。 「三日間……とか、無理ですよね」 「あ、あの、それって、教えてくれるのは、宮野さんですか?」 「はい、もちろん。三日間、一緒に泊まります。あ、でも、俺は前半なんです。後半じゃないとダメなら別の」  彼が心配してくれているような、実家への帰省は運が良いと言っていいのか、この合宿の後半に俺は帰省を予定していた。前半よりも道が混んでないと思ったんだ。 「いえ、前半がいいです」  バカ。胸をどうして踊らせるんだ、俺は。それに「いいです」ってそれじゃまるで、宮野さんだから行くみたいにならないか? 宮野さんだって、そんなふうにご指名みたいに言われたって困るだろ。彼にしてみたら、仕事の一環でしかないのに。 「俺もそのほうが伊都君にはいいと思います。あ、もちろん、他のコーチもすごくレベル高いんで、いいんですけど。やっぱ、俺も教えてあげたいし。それに……」  それに? そこで言葉を止めるから、じっと見つめてしまった。宮野さんがこっちを見て、その瞳が少しだけユラッと揺れたような気がした。 「お父さん! ねぇ! それ、何?」 「えっ? あ、えっと、スイミングのとこで泊まりで練習するんだって、行ってみたい?」 「みたい! お父さんは?」  俺は……行きたい。 「行くよ。一緒に泊まる。キャンプファイヤーもあるんだって、他にもピクニックとかあるらしいよ」  伊都が目を輝かせた。夏休み、海にもプールにも連れていってあげられなくて、彼にとっての夏休みは遊園地とか避暑地とかそんな程度。お盆以外は普通に保育園だったし。  両手を挙げて、ぴょんぴょん跳ねながら、一瞬で今年の夏休み一番の楽しみになったイベントにおおはしゃぎだ。しかもそんなに待たずに、今週末からもうその楽しみに突入する。  俺も、伊都と同じように楽しみだよ。すごく。ただおおはしゃぎはできないけれど。 「あ、それと、これ、この前の夕飯のお礼に」 「え? いいのに」 「作ってもらったから。美味しかったです。ありがとうございます。これ、ソーセージ」 「あ、これって」  中を覗くと、真空パックになっているソーセージが三種類入ってた。 「知ってます? ここの」 「はい。ずっと気になってたけど、さすがにちょっと自分で食べるために買うにはちょっと手が出せないっていうか」 「ですよね。食べてください」  近所にあるソーセージ屋。自家製ですごく美味しいらしくて、たまにテレビとか雑誌で紹介されている。どんななんだろうと興味はあるけれど、買う、となると手が出ない。 「え、でも、そんな。あの夕飯だって、材料は半分出してもらってるようなもんだし。その材料だって、カット野菜一袋なんてたかが」 「楽しかったから」  おおはしゃぎ、しそうになってしまう。なんでなのかなんてわからない。それを冷静に分析するには俺の日常はちょっと忙しいよ。仕事して、家事して、育児して、この胸の内側にあるものなんだろう、何色をしているんだろうなんて、考えている時間はあまりないんだ。 「だから、お金とかじゃなく、お礼がしたくて」 「でも、そんな」  考えてる時間がないから、感じるままにしかわからない。 「わーい、ソーセージだ! 三つあるよ! お父さん! 三つあって、三人だから、ちょうどだね!」 「え? あ、伊都君! これはね」  ただ、彼と一緒に夕飯を食べたあの晩はとても楽しかった。そして、彼もあの時は楽しいと感じてくれたのなら、そしたら、それだけで充分なんじゃないかと思った。考え込んだりせずに、素直に、感じるままに言いたいことは。 「宮野さんは夕飯、もう食べたんですか?」 「え? あ、いえ。今、職場から帰って来たとこなんで」 「じゃあ、三人で食べ比べしませんか?」  ソーセージと、そしたら、他にサラダと野菜スープとかにして、三人で三袋、食べ比べをしたいです。楽しかったから。彼と、伊都と、三人で食べた夕飯はとても楽しかったから。また、一緒に食べたいと、思ってたんです。  そう素直に口にした。 「なんか、すみません。でも、じゃ、遠慮なく、いただきます」  そして、彼の言葉に少しの社交辞令も入ってないことを願っていた。

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