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第9話 距離感がわからなくて
「美味しかったですね。ソーセージ。実は俺も初めて食べたんです」
伊都がまた宮野さんを捕まえて、ずっと隣を陣取っていた。他の子は見たいこともない、自分しか知らないだろう、プールの外にいる彼にご満悦って顔をしてた。今日だってスイミングレッスンはあったのに、疲れて眠いはずなのにはしゃいでテンションが高いせいで目をらんらんとさせてたけど。ちゃんと寝ないと、明日、待ち合わせに遅れるよって、宮野さんに言われて、ようやく寝室へと向かった。
待ち合わせ? って? そう首を傾げる俺へ楽しそうにふたりで笑ってた。
あれ、朝の、お互いのマンションの間にある道で毎朝遭遇するやつ。
「コーヒー、砂糖とミルク入れますか?」
「あ、ミルクだけお願いします」
子どもの相手をすることが多いからかな、伊都の相手が上手だ。おかげで、すごく珍しくひとりで寝室に行ってくれた。
「もう、伊都君寝てます?」
「はい。ありがとうございます」
コーヒーを淹れる前に様子を見に、そっと寝室へ行ってみたけれど、穏かな寝息が聞こえていた。
「十二日から、ですよね」
「はい。大丈夫ですか? 俺がパンフ持ってきたからって、無理してつき合わせてるかもって」
「伊都、喜んでましたよ。俺、海とかプール連れて行ってあげられないから」
「……佐伯さんは?」
「……ぇ?」
お互いに少しだけ声のトーンを下げていた。伊都を起こしてしまわないようにって、無意識に静かに声を小さくして話してた。
「あ、はい。俺も、ちょっと楽しみです。キャンプファイヤーとか、何年振りだろ。あ、俺、けっこうアウトドア好きですよ? 今は事務職なので肌も真っ白で、そうは見えないかもだけど」
逆に、宮野さんは? キャンプとかそういうことじゃなくて、今、ここで、男親に小学生の子どもと一緒に夕飯なんて、無理して付き合わせてませんか? そう、訊きたいけど、訊けない。はい、無理ですって言われたら悲しいし、そんなことないですって言われても、信じられなくて何度も確かめて、結局は嫌がられてしまいそうだから。
「泳ぐことは得意だったんです。ただ、水、怖くて。パニック起こしたらそれこそ大変だから、そういう場所連れてってあげられなくて」
彼がソファに体を預けるように座り、そこからこっちを静かに見上げていた。あの子は覚えてない。自分の母親がどうやって亡くなったかを。ただ、父は水を怖いと思っていて、それが悲しい出来事と繋がっているから、なんとなく水遊びとかしないほうがいいだろうと、察知してくれてる。
一度もそのことでワガママを言われたことがないんだ。
友達はプールに行った、海で遊んだと、保育園で話していただろうけど、自分もそれがやりたいと言ってきたことは一度もない。そのことが余計に申し訳なくて。
前は湯船すらダメだった。今はそのくらいなら大丈夫。旅館の大浴場は……わからない。
「でも、この前、怖くなかったんです」
「この前って?」
「伊都が初めてスイミング習った時。自分でもびっくりしました。ゆっくり少しずつ、時間が経てば治ってくるのなかって。そしたら、プールに連れて行ってあげたいなって。あと、海も」
本当はとても綺麗で楽しい場所なんだ。怖いところじゃないんだと教えてあげたい。
「あ、ごめんなさい。冷めちゃう。どうぞ。ミルクだけ」
テーブルに置くコーヒーもなんとなく音を立てないようにそっと、静かに置いた。
「佐伯さん、料理上手ですよね」
「え? あ、あれは、ソーセージが美味いんだと思いますよ」
びっくりした。急に話の展開が変わったから。もしかして、いや、もしかしなくても、俺の過去の話なんて、暗すぎて、きつすぎて、楽しくなんて決してないからもう聞きたくなかったよな。彼にしてみたら生徒の保護者が語る知らない場所の知らない出来事なんだから。
「ソーセージはたしかに美味かったけど、それじゃなくて、野菜スープ、すっごい美味かったです。おかわりしちゃいました」
「あはは。今回は失敗しなかったから」
前回よりは緊張しなかったんだろう。いつもどおりの野菜スープになってくれた。さすがに、二回連続失敗したんじゃ、もう食べに来てくれないかもしれない。って、三度目をまるで期待してるみたいに。
さすがに三度目はないだろ。ご近所だけれど、だからってそう何度も夕飯ごちそうはしないだろ? 同じマンションの住人に夕飯のお裾分けなんて一度だってしたことないのに。距離感が上手につかめてない。わからないんだ。どこか冷静じゃない、考えるよりも早く言葉が出てくるし、気持ちはその感情が沸き起こる理由を考えるよりも早く、喜んで、騒いで、たまに慌てて。せわしくなくて、彼との距離感をちゃんと把握する暇がないんだ。定規でもあればいいのにって思うよ。何センチになったから、ここからはお隣さんでお裾分けしていい距離とか、ここまで離れたら挨拶は交わすけれど、プライベートは知らない距離なんて、定規で数字で表してもらえたら一番楽でわかりやすくて、間違えないで済む。
俺にとっては職場じゃないけれど、彼にとっては職場の延長戦なんだとしたら、きっとこの距離感は間違えた。「何言ってんだ」の距離。
ご近所さんでもすごくとても仲がいいのなら、友達だとしたら、まぁありえる距離だけれど、そこでもない。これは、どのくらい離れてたらいいんだ。どのくらい近くまでなら行っていいんだ。
「だから、また食べたいです」
「……ぇ?」
考える時間なんて今の俺にはない。感じるまま、素直に言葉にしてしまうのなら、また一緒に夕飯をいかがですか? って訊きたかった。
「今度の夏合宿で、特別レッスン。俺が佐伯さんに泳ぎのレッスンをします」
「……え?」
「その代金が佐伯さんの手料理っていうの、どうです?」
「……え、でも」
「夜のプールで」
萎れかけた気持ちが、彼の言葉をぐびぐびと飲み干していく。
「前半のプール管理は俺なんです。だから、もちろん会社のほうには伝えます。夜、俺が個人練習したいって言えばたぶん使えます」
「あの、でも、そんなこと」
「泳げたのなら、ただ、怖いっていうのがなくなれば、そしたらまた泳げます」
「……」
ぐびぐびと喉を鳴らして飲んで、そして、指先まで行き渡っていく。
「余計なおせっかいです。でも、佐伯さんが泳げるようになる手伝いをさせてください」
「……」
全身に染み渡った言葉は温かくて、でも少し熱いくらいで、じっと俺へ顔を向ける彼との距離を正確に測れそうもなかった。
頷いてしまった。
宜しくお願いしますって、言ってしまった。
三泊四日のスイミング合宿で、自分も伊都と共に泳げるようにしてくださいってお願いしてしまった。
「ねぇ、お父さん、なんか楽しそうだね」
「んー? そう?」
「うん。あ! わかった! もう夏休みだからだ!」
「あーそれもある」
でも実はその前に残っている事務処理の片付けに重くなっていたりする。連休前までに全て片付けてしまいたいけれど。
「わかった! 合宿! あるからだ!」
「……そうだね。伊都、お弁当持った?」
「うん! コーチが買ってきてくれたソーセージ入れた?」
二本だけ取っておいたんだ。翌日の学童で持っていくお弁当用にって。三種類あったうちの二種類、伊都が自分で取り分けておいた。
「入れたよ」
ほわっと頬を赤くして、すごく嬉しそうにしてた。目から光が零れ落ちるんじゃないかってくらいに輝かせて。
「コーチにごちそうさまってまた言わなくちゃ」
「あ、それなんだけど」
コーチはね、実は毎週月曜と水曜が休みなんだって。だから、今日は道端で鉢合わせはしないんだ。そう、昨日の帰りに教えてくれた。思い返せばその曜日はたしかに彼に遭遇しなかったなって。
――寝起き、髪の毛すごいんですよ。人前に出られる頭してないんです。
そう言って笑ってたっけ。俺は、きっと気にしないですよ。あと、寝癖あっても別に普通にカッコいいと思いますよ、なんて、言っちゃったけど。変じゃなかったかな。おかしくなかったかな。
「あ! コーチだ!」
「え?」
伊都が顔を上げて手を振る。その視線を辿って行くと、二階の廊下からこっちへ手を振っている彼がいた。
「いってらっしゃい」
「コーチー! いってきまぁぁす!」
ホントだ。すごい寝癖だ。突風の中で寝たんだろうか。
「……いってきま、す」
ちょっと笑ってしまった。だって、本当に見事な寝癖だったから。彼は笑っている俺を見て、少し苦笑いを零して、自分ではわかっていたんだからと、飛び跳ねている髪を掌で撫で付けていた。
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