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第10話 ゆっくり、丸く、なだらかに

 今日から夏休みだった。  山の日、なんだって。麻美が生きていた頃にはなかった祭日。 「お花、もつかな……」  できるだけ蕾が多いのを選んだけど、あまりに暑いからすぐに枯れてしまいそうだ。  伊都とふたりでお墓参りに来ていた。霊園だから、草むしりも何もしなくていいんだけど、スポンジで石を洗って、水をたっぷりかけてあげた。もうすでに乾き始めてしまうくらいの暑さ。  伊都がね、スイミングに通ってるんだ。泳げなくて、俺は教えてあげられないから、夏休みの集中レッスン。っていっても、俺は仕事だから、普通に週二で通うだけなんだけど。 「お父さぁぁん! 蝉の抜け殻、いっぱいあったよっ!」  伊都が両手で水をすくい上げるようにして、たんまりと蝉の抜け殻を運んできた。軽いから、走った拍子にいくつか手から零れて、慌てて引き返して拾って、また、今度は小走りだ。 「何? 拾ってきたの?」 「うん! いっぱいあった!」 「お母さんに?」 「うんっ」  喜……ばなさそうだけど、虫苦手だったから、お墓の中で断末魔を上げてるかもしれないね。 「ほら、伊都もお線香」 「はーい」  ふわりと香るお線香が麻美のことを思い出させるようになった。  伊都を連れて初めて来たお墓参りの時は熱中症が心配で慌しかったっけ。三歳の時は、そうだ、今と同じように蝉の抜け殻で遊んでた。形が面白かったみたいで、手にいっぱい持ってたっけ。でも、その次の、四歳は虫が怖くなってしまった。触れなかったんだ。道端に落ちてるのを見つけて飛び上がって避けてたのを覚えてる。五歳の時は、写真の中の麻美しか知らなくて、俺に色々聞いてた。今年は――。 「……」  五回目のお盆だ。 「……行こうか」 「うんっ」  伊都は俺の声を合図にパッと立ち上がる。 「ほら、伊都はこれ持って」 「うん。あ、お父さん、この後」 「買い物ね。明日からの合宿用におやつ」 「うんっ!」  それを楽しみにしていた伊都が目を輝かせて、ジャンプするような足取りで歩いていく。俺の前を跳ねるように楽しそうに。 「伊都はお母さんに何か話したの?」 「うん! 泳ぎの練習してるんだよって。コーチに褒められたって言った!」 「そっか」 「明日からもっと練習するからすごくいっぱい泳げるようになるよって言っといた」  先を歩く伊都の背中を眺めて、一度、振り返った。今日は風がないんだ。だから、お線香のかすかな煙がゆっくり空気に馴染んでいくのが見えた。 「……」  大きくなったでしょ? もう小学生だよ。四月に、ここへランドセルを見せにやって来たけど、毎日あれを背負って楽しそうに登校してる。もう、小学生になったんだ。  君が亡くなってしまって、もう五年も経ったよ。五年、その間にたくさんのことが積み重なって、思い出はたくさん増えて、そして、あの時の事も、悲しみも、ゆっくり丸くなだらかな記憶に変わっていく。五つ、俺は歳を重ねて、伊都は成長した。 「お父さぁぁぁん!」 「はいよ」 「今日もコーチご飯食べに来るかなぁ」 「……どうだろうね」  ゆっくり、ゆっくり、やわらいでいくんだ。 「伊都、荷物、忘れ物ない?」 「うん。ない……と、あ、お菓子!」  カラッカラに乾いた洗濯物をたたみながら、明日の準備をしている伊都に訊くと、ハッと目を丸くして、急いで立ち上がる。キッチンに駆け足で向かい、ガサゴソ大きな音を立てて、小さな独り言を言いながら、また駆け足で戻ってきた。 「あった!」 「それ、好きだね」 「うん! コーチにあげるんだぁ」  伊都が唇をきゅっと引き締めて笑った。伊都の一番気に入っているグミ。 「……そっか。喜ぶといいね」 「うん。今日もご飯食べに来るかな」  伊都には訊かれる度に、毎日は来れないよって言ってる。彼にだって用事がある時もさ、ほら、若いんだから友だちと飲みに行ったりとかさ。  どうだろう。来るかな。わからない。でも、伊都以上に時計を気にしている自分がいる。伊都には来れないことだってあるんだからって、言って聞かせているのに。 「夕飯、作ろうか」 「コーチは?」  待ってて、もし来なかったら、夕飯が遅くなるから。それに、別に約束をしているわけじゃないからね、そう言って、一瞬で残念そうな顔をする伊都の頭を撫でた。  そわそわしている自分がいる。彼が来るのを待ってる自分が胸のうちにいそうで、慌てて言い訳を引っ張り出してきてしまう。  別に、だって、これは契約。そう! これは契約なんだ。俺が泳ぎを無料で彼に教わる代わりに交わした契約。コーチ代の代わりの夕飯だから。ただそれだけのこと。他には何も。  それに今は洗濯物を畳んでたから、料理できないだけの話。これが終わったら。  ピンポーン 「!」  胸のうちがぎゅっと身構えた。  あ、コーチだ! と、飛び上がって玄関に向かう伊都から出遅れてしまうくらい、一瞬、身構えて、それから畳み終わった洗濯物をかかえて立ち上がった。 「伊都君、こんばんは」 「遅かったね。コーチ」 「うん。ごめんね。明日からの合宿の打ち合わせで。あ、こんばんは」 「こ、こんばんは」  遅かったですね、って、伊都みたいに言ったらおかしい、よな。なんか、たぶん、変……だよな。 「鞄、持ちましょうか」 「あ、いえ、大丈夫です。っていうか、俺、夕飯時間から大遅刻ですか? いつも時間厳守って言ってる俺がそれじゃ、」  片足で立ちながらサンダルのベルトを緩めてる。  ぱさっと前へと垂れた髪が少しだけ濡れてた。それに、お辞儀をするように頭を下げている彼のうなじが汗をかいてる。もしかして、自転車で急いで? 帰ってきたりとか、した? 夕飯の時間に食い込んでしまうかもしれないからって。  汗、すごいな。タオル、いるかな。  汗、いっぱいかいてるし。急いで来たのかもしれないし。彼のうなじを汗がツーッとなぞっていく。 「あれ? お香?」 「!」  その汗の雫を追いかけるように手を伸ばした俺は、バチッと目が合ってしまった。線香の香りが髪に残っているか、かすかな香りを察知して顔上げた彼と、タオルで首筋を拭ってあげようと手を伸ばした俺がしっかりと視線がぶつかる。。 「!」 「ごめっ、タオル! 汗、すごいから」 「大丈夫ですよ。すみません。遅かったから。あの、もし夕飯済んじゃってたら、これだけ、もらってください。明日の朝食にって、パン。食材とかだと明日から合宿でいないから微妙かなって」 「……待ってたから」  茶色の瞳に俺が写りそうなほど、目を見開いた。 「暑かったでしょ? 今日、お墓参り行ったんだけど、すごい暑かったよ。麦茶、冷えてるから。上がって」  本当に、君を待ってたんだ。だから、夕飯はまだ全然これから、だよ。

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