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第11話 内緒のね
「お父さぁん! 早く行こうよぉ!」
「あーはいはい。待って、荷物を」
今日はいつも以上に早起きだった。伊都が目を覚まして真っ先に口にしたのは「おはようございます」の挨拶じゃなくて、今日は! 合宿だ! っていう掛け声だった。
宮野さんにいただいたパンは美味しかった。ソーセージのパンと、カレーパン、どちらもどこか変わっていて、普段食べるようなのと少し違っていて、とても美味しかった。
宮野さんの味覚って、俺に似てるのかな。だから、いつもあんなに美味しそうに食べてくれてるのかな。作りがいがあるっていうか、作ってあげたくなるっていうか、いや、別にたいしたことじゃないから、作ってあげたくなるなんて言うほど大そうなものじゃないんだけれど。フランス料理やイタリアンみたいに素敵な夕飯じゃないし。野菜炒めとか、生姜焼きとか、そんな程度だから、ホント、別に簡単だから。
彼だって、同性の年上に料理作ってあげたいなんて思われたって、別に嬉しくないだろ。
「お父さぁぁぁん! 早く行くよー! もうコーチ待ってるってば!」
「!」
待ってないから。コーチは皆のことを待ってるだけだから。俺たちだけじゃないよ。
――待ってたから。
それでも、あの時、すごく緊張した。あんなに心臓ってドクドクうるさくなれるのかと驚くほどだった。どうして緊張したんだろう。
「待ってたんだ……」
自分の口元だけで、あの時沸き起こった感情を確かめるように同じ言葉を呟いた。なんてことはない言葉なのに、あの時は声がひっくり返ってしまいそうだったんだ。
「うん! わかってる! 待ってるよ」
「や、そうじゃなくて」
「ほら! 早く! コーチのとこに行こうよ!」
伊都が俺の独り言に反応して、先を急がせる。ほらほら、って、急いで靴を履かせて、急いで背中を押して、少しでも早くって急かすんだ。だからだ。だから、俺も急ぎたくなるだけ。
別に、彼に会いたいんじゃない。宮野さんにとても懐いてる伊都があまりに楽しそうだから、引きずられてるだけのこと。
だって、彼はコーチ。年下で、ご近所で、そして――。
「おはようございます」
「!」
そして、男だ。
「あ、おはようございます。今日から宜しくお願いいたします」
「こちらこそ」
「わー! コーチ!」
伊都が目を輝かせて、彼に話しかけようとぴょんぴょん跳ねた。そして、かまって欲しさに、邪魔をしようとぶらさがって、それを笑って担いでくれる。細身なほうだと思うのに、でもやっぱりスポーツやってるからか、力すごいなぁなんて思って見てしまった。
大笑いしてはしゃぐ伊都を軽々と持ち上げられる。自分と同じ男性。そんなのわかってるのに、どうして少しはにかんでしまうんだろう。
「四階のフロアに寝泊りするので、荷物はそちらへ。貴重品はロッカー脇にある金庫のほうにお願いします。数に限りがあるので、ひと家族で使用はひとつにお願いします」
「はい」
「それじゃあ、伊都君。まずは水着になってプールに集合」
「はーい」
階段を急いでひとりで上っていってしまう。
「えっと、四階ですよね」
「はい。三日間宜しくお願いします」
「こ、ちらこそ」
あ、なんだろ。くすぐったい。胸のところがとてもくすぐったくて、耳が熱くなっていくのがわかる。
「宜しくお願いします」
だって、宮野さんが他人行儀だから。
――っていうか、俺、夕飯時間から大遅刻ですか?
――あれ? お香?
うちで夕飯を食べる彼よりもかしこまったコーチとしての彼と挨拶を交わす。いつもうちで笑って会話する宮野さんじゃない。それはいつもの俺たちを内緒にして芝居でもしているような、秘密を共有しているような、そんなドキドキも混ざっている。だから、とてもくすぐったかった。
スイミングの内容に特別なものは特になかった。いつもどおり、入念に丁寧なストレッチと体操をして、水に入ることを怖く感じたり、イヤになってしまわないように、小さな滑り台を使って順番に水の中へ。全員が入ったら、まずは水中ジャンケン。それが終わるとプールの縁を掴んで、バタ足の練習。ビート板を使ってケノビ。
でも、少しだけレクリエーションが多いかもしれない。みっちり練習するというよりも、たっぷりある時間を使って、遊んで楽しんで、スポーツも頑張る。そんな感じだった。
伊都もとても楽しそうだった。同じ学校じゃない、歳も、いくつなのか体つきで大体は見当がつくけれど、正確には知らない。しかも伊都は短期コースの生徒。今ここにいるのは、もうずっとここのスクールに通っているベテランばかり。それなのに伊都は人見知りすることなく打ち解けていた。
子どもって、こういう時にすごいな。すぐに馴染んでしまう。今だって、皆で作ったカレーを食べてから、レクリエーションに参加している。お腹をかかえて笑い転げる伊都がいた。
どうしてあんなにすぐに馴染めるんだろうな。
「レクリエーション参加しないんですか?」
「!」
大人でもすぐに馴染んでしまえる場合もあるけれど。
「伊都が楽しそうにしてるのも見てたいから」
騒いでいる輪から少し離れたところで見守っていた俺の隣に、宮野さんが腰を下ろした。笑い声たちが急に遠く感じられて、その代わりに彼の声がすぐ隣から聞こえる。
「カレー、美味かったですね」
「あ、うん」
宮野さんが隣に。屋上の庭園にあるベンチで、今、二人だけで、並んで座っている。
「……なんか、妙に緊張しますね」
「……え?」
思わず彼の方を見つめてしまった。宮野さんはスッと視線を大はしゃぎしている子ども達のほうへと向ける。
「ほら、なんか、ちょっと他人行儀にするのとか。一応、他の方もいるから」
「そ、ですね」
実は今のほうが、レクリエーションに混ざるよりも。緊張してる、かな。だって、ほら、今度は急にいつもの距離だから。
「すみません。なんか、いづらかったりとか、します、よね」
「え? ぁ、いえ。大丈夫ですよ」
俺以外の保護者は皆顔見知りなんだろう。すでに仲の良い親同士で会話が弾んでる。短期レッスンから参加している人もちらほらいるっぽいけど、ママさんだったりで、挨拶する程度。
「すみません」
「大丈夫ですってば」
ニコッと笑ってみせた。
「俺、人見知りするほうだから、ここにいるのが短期レッスンの子と保護者ばっかりでもそんなに変わらないです。それに、伊都と話せればそれでいいですから」
「すみません」
「だから、謝らないでいいですってば」
本当に平気なんだ。黙っているのは苦じゃない。伊都が遠くで遊んでいるのを眺めているだけでもけっこう楽しいし、他の親御さんたちの会話が弾んでいても入りたいとか、羨ましいとか思うこともないから。保育園の時もそうだったし。仲良くなりたくないわけじゃないけれど、輪に率先して入っていくタイプでもないっていうか。
それなのに、この人に対してだけは、自分から声をかけようとしたっけ。
しかも夕飯、一緒にどうですか? なんて、普段の俺だったら絶対に言うことはない。自分から歩み寄ろうとするなんて。宮野さんにはどうして、そんなことをしたんだろう。
それに、ただこうして話してるだけなのに、なんで、視線を向ける先が定まらないんだ。いつもどうしてたっけ? って、妙に意識してしまう。会社ではどうしてる? 同僚の藤崎さんと話す時、俺はいつもどこを見てた? どうして同性の彼と会話するのにいちいち戸惑ってしまうんだろう。
「今日、十一時とか大丈夫ですか?」
「え?」
そうだよ。男同士なのに、何をそんなに意識しているんだろう。
「夕食代、俺の体で支払わないと」
「えぇっ?」
「冗談ですよ」
からかわないでくださいって怒ってみせたら、笑って、また子どもたちがはしゃいでるのを見て、その視線がこっちへ向けられる。俺が少し膨れっ面になったのを確認して、また、笑ってた。
「俺は、この合宿中のプール管理責任者なんで、ずっと降りてます。プールに。二階には誰も来ないんで」
「……」
こんなに顔を熱くして、きっと真っ赤になってる。男同士なのに、何を、そんな、意識することがあるんだよ。
「なので、そっと降りてきてください」
「……」
「それじゃ、また後で」
短い時間だった。そして、またお芝居の距離感に、いつもよりも遠く離れた場所にお互いに急いで戻っていく。彼はすぐに子ども達の輪の中へと混ざって馴染んでいく。俺はそんな彼を、ここから眺めてる。心臓を、なぜかトクトクと鳴らしながら。
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