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第12話 温かくて、冷たくて
伊都に応援されてしまった。夜、コーチに水泳を習ってくるからって話したら、頑張ってって、両手でガッツポーズをされてしまった。
寝る前、もしも、夜中に目を覚ました時に俺がいなかったら不安だろうからと、説明したんだ。
――大丈夫! 水、きっと怖くないよ! コーチが手を繋いでくれたら大丈夫だからさっ!
なんて励まされて、素直に嬉しかった。手は、きっと繋がないよって心の中で思いながら、頑張ってくるからねって言った。水が怖くなくなったら、一緒にプールでも海でも行こうって約束して。
「大丈夫でした? 伊都君」
「あ、はい」
プールの手前にあるソファに上だけジャージを羽織った、水着姿の宮野さんが立って待っていてくれた。
「……なんか、佐伯さんのイメージとちょっと違う水着だった」
「え? アッ! これは! その、五年前に買ったものだから」
それ以来、水着を着る機会はなかったから、これだって、ずっとタンスの底に敷物状態でしまわれていて、一度洗ったくらい。あの当時も二歳の伊都の父親だったんだけど、五年前の自分ならきっと合っていたんだろう。今の俺には少し派手でちょっと浮かれた大学生って感じがして、気恥ずかしい。
「プール行きましょうか」
「は……い」
あ、どうしよう。
「……」
プールには誰もいない。水面は透明な床のように滑らかだ。俺と宮野さんの足音がやたらと良く響いている。波、なんてほんの少しもないのに。
「佐伯さん?」
どうしよう。怖い。
「あ、えっと……」
水の中にモンスターが潜んでいるような気がするんだ。ほら、何も波立ってないのは、水の中にいる「それ」が獲物に逃げられないために息を潜めて待っているように思えてくる。きっと、入った瞬間、ううん、水辺に近づいた瞬間、「それ」が勢いよく捕まえにやってくる。そして、あっ! って思った時にはもう遅い。
一瞬で水の中に連れ去られる。ほら、きっと、いる。あの水色の底に身を潜めて、こっちを見てる。目を細めて、笑ってる。
「佐伯さん」
「っ!」
穏かなその声にさえ飛び上がった。何もしていないのに呼吸が荒くなる。怖くて、足元から体温はもう水の底に連れて行かれてしまっている。冷たくて、夏だっていうのに、温水プールだっていうのに、真冬みたいに寒くて凍えてしまう。
「手、繋ぎましょうか」
「え?」
「ね?」
彼の手はとても大きいと思った。力強くて、安心感があった。
「大丈夫。今日は中に入らず、少し話しとかしません?」
「……」
にこっと穏かに静かに笑って、もう一度、手を差し伸べられた。指を広げて、絶対に掴んでいてくれそうな大きな掌。
「でも……あの」
「座りましょう。足つけるのがいやだったら、プールの近くでもいいですし」
躊躇う俺のこととかいっぺんに掴んで、大丈夫だとしっかり握り締めてくれる、温かい手だ。その手に手首を掴まれてしまった。
「足、つけられそうですか?」
手がぎゅっと握ってくれた。包まれて、さっき、水の中の「それ」に奪われた体温分を繋いだ手から彼が分け与えてくれる感じがする。繋いだ左手から、ゆっくり、腕を通って、肩からじんわりと全身に広がっていく。
「は、い……あの、手」
「……放したほうがいいですか?」
小さく首を横に振ると、力強く握り直してくれる。今、突風が吹きつけても、何があっても飛ばされることはないって思えるくらい、強く、ぎゅっと。
「っ」
足の先で水に触れた、その一瞬、飛び上がりそうになった。でも、うん。平気。
「伊都と、泳げるようになったら、怖くなくなったら、海か、プールに行こうって」
「え、素敵ですね。そっかぁ。プールと海、どっちがいいです?」
「伊都はっ」
冷たいっ、って身が竦みそうになった。足先で触れた水がとても、怖かったけれど、でも、どんなに冷たい水だったとしても平気だ。大丈夫。
「伊都はっ、たぶん、海っていうかな。でも、さすがにっ」
大丈夫だよ。どんなに冷たく凍りそうなほどでも、繋いでもらってる手からいくらでもどんどん熱が温めてくれるから。平気。
「さすがにっ、海にいきなりは怖い、かも、なんで、プールがいいかなって」
「そしたら、あそこがいいですよ。市営なんですけど、大きな滑り台もあって、幼児用はふたつ、子ども用がひとつだけど、浅瀬のプールが流れるやつになってて、大人用のもあるし」
「へ、ぇ……そんなとこ、ありました、っけ?」
平気、大丈夫、そう胸の中で繰り返して、落ち着いた低い声で楽しそうなプールのことを話してくれるのを聞いて、ゆっくり、プールの縁に座った。すぐそこ、足元にはたっぷりの水の塊。足の先を少し曲げて丸めて、今、水中にいる。水に触れてる。なのに、不思議だ。「それ」がいなくなった気がした。
あの時と同じ。
伊都とここのプールに初めて訪れた時、ガラス越しに見る水の塊に恐怖がむくりと起き上がって来そうになった。
「作り直したみたいですよ」
でも、起き上がって襲い掛かることはなかった。彼がいたから。彼の笑顔と、伊都の頑張ってる姿に、「それ」は背中を丸めて苦々しい顔をしながら引っ込んで行ったんだ。
「そ、なんですね」
爪先、足の甲、足首、ゆっくり、順番に水の中へと。
「…………冷たい、けど、温かい、かな」
「どっちなんですか?」
ふたりだけなんだ。彼の笑った声がプールに響いてる。クスクスと小さく笑って、温かいんだか冷たいんだか、どっちなのって言った声も、響くほど。ふたりだけしかいないプール。
「どっち、なんだろう」
俺と、宮野さんだけ。他には何もいない。「それ」もいない。水の塊も、俺を一瞬で飲み込んで底に引きずり込むモンスターも、何も、いない。
「でも、今、決めました」
「?」
「やっぱり、プールがいいと思う」
伊都と初めて行くのはプールにしようと思います。だって、足をつけたら、けっこう、気持ち良かったから。
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