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第13話 水音

 五年ぶりだった。少し派手なレジャー用の水着、ちょっと嬉しいのは着れたことかな。五年の間にあまりメタボになっていなかったようで、それは、うん、少しだけ自慢。 「いや、細いですよ。佐伯さん」 「細いばっかでもダメでしょ」 「あと、白い」 「……それ、もやしって言いたいんですか?」 「あ、もやしの味噌汁美味いですよね」  悪口ですよって怒ったフリをしながら、そうか、もやしの味噌汁好きなんだ、って、胸のどこかにメモしておいた。  テレビで見たことがある足湯。怖かったからやったことはなかったけれど、気持ち良さそうで、ちょっとやってみたいかった。その足湯みたいに、足をプールの水につけながら、ふたりで他愛のない話をしていた。本当に他愛のない会話。うちで夕飯を食べながらしているのと大差ない。 「もっと、宮野さんみたいだとカッコいいのに」 「俺、カッコいいですか? ありがとうございます」 「あはは。言われ慣れてそう」 「まさか。ぶっちゃけ、内心めちゃくちゃドキマギしてますよ」  いや、大差、あるかな。いつもと少し違うかな。心臓がトクトク鳴ってる。いつも、彼と食べる夕飯に胸のところが小さく跳ねるような感じはするけれど、今は跳ねるっていうよりも、そこで小太鼓を鳴らされてるみたいだ。 「もう少し太っちゃったかと思ってました。自分自身のこと」 「体重は?」 「あんまり測る暇なくて」  本当に分刻みで忙しかったりするからさ。小学校に上がったら急に色々増えたんだ。プリントだって毎日もらってくるし、それに目を通して、何がこの後やらないといけないことなのか、ちゃんと確認しとかないと。保育園の時みたいに考慮はしてもらえない。支度でも宿題でも、親が確かめてあげないと。 「今は事務仕事で日中あまり動かないから。あれ、味見」 「?」 「料理しながらする味見がけっこう太る原因なんですよ」  そう事務所のママトークが盛り上がってるのを聞きながら、冷や汗だったんだ。俺も味見という名目のもと、よくつまみ食いしちゃうから。  立ち仕事じゃないのに腹はちゃんと空くし、空腹抱えながらの料理じゃ、余計にお腹が空くし。 「前は何やってたんです?」 「営業で」 「へー、営業」 「けっこう成績良かったですよ?」  本当に売り上げは上位をキープしてたんだ。日中は外歩きまくって取引先の訪問。夕方帰って来てからは事務仕事。それを翌日の朝一で部長に確認してもらって、メールチェックして、また外回り。 「そうなんですね。ぁ、でもわかる気がする。佐伯さんに笑顔で、どうですか? これ。なんて言われたら、ついつい買っちゃいそうです」 「俺、どんな営業なんですか」 「あははは。俺、そういう仕事就いたことがないんで。そっか、大変そうですね。営業」 「んー、楽しかったかな」  今は数字とにらめっこするばかりだけれど、伊都がいるから、それに、ママ友との会話はけっこう参考になるんだよ。病気のこととか、小学校のこととかも相談できるし。とくに同じ歳の子がいるのはすごく助かる。 「少し、リラックスできましたか?」 「え?」 「手、放しましょうか?」 「あ……」  そういえば、ずっと繋いでた。怖がる俺を勇気付けようと手を繋いでプールの縁まで連れてきてもらった。 「もう、少し、このままでも?」 「もちろんです。水、どうです? まだ」 「今は怖くないです。でも、本当にずっと怖かったから」  膝くらいの高さまであれば、そこには必ず「それ」がいた。波の形をして、音を立てて、俺の足元からいきなり飛び掛ってくる「それ」に恐怖するばかりだった。  ――お前が叫ぶより、助けを呼ぶよりも早く、一瞬で、水の底に引きずりこんでやる。  そんな低く、地を這うような声が耳元で囁く。喉奥だけで嘲り笑っていた。 「彼女をなくしてからは生活が一変したんです。普通に生活するのにも困るほどの恐怖はあっちこっちで俺に襲い掛かってきて、いきなり母親をいなくしてしまった伊都を支えて、育てないといけないのに」  身が竦み上がるほどの恐怖が生活の邪魔までしていた。 「大波を頭から被って、目にも鼻にも、口の中も潮水だらけ。びっくりして泣きじゃくる伊都の声を、今でも覚えてます」  ぎゅっと瞑った目から溢れ落ちる雫は涙と潮水ともわからなかった。ただ泣き叫ぶ声はとても痛々しくて、聞いてるだけで耳が引き千切れそうだった。 「何度も思いました」  あの時、麻美の手は本当に取れなかった? 彼女のことをどうして掴んでやれなかったんだ? あそこで、ちゃんと周りを見れていたら、波に気がつけていたかもしれない。そしたら、麻美は飲み込まれずに済んだかもしれない。  波に飲み込まれそうになる彼女の指一本でも掴めていたら、助けられたかもしれない。死なせずに済んだ。 「何度も後悔しました。もうそんなことを思ってもどうにもならないのに、夜中にうなされて起きて、でも、うなされることに安堵することもあって」  少しくらい苦しんだほうがいい。波の飲まれて死んでしまうのはとてつもなく苦しくて悲しかっただろうから。お前も同じくらい苦しんだほうがいいんじゃないのか? 妻を守ってやれない非力な奴なんて。  そうやって、溺死しそうなくらい「それ」に引きずり込まれかける。夜の暗闇はまるで、海の底みたいに、俺の呼吸を奪いたいと掴んで放してくれない。 「でも、必ず朝は来るじゃないですか」 「……」 「そして、伊都の寝顔を見て、幸せになるんです。あぁ、よかった。朝が来たって」  夜に震えて耐えれば、翌日、伊都がいる。伊都が隣で呑気に涎を垂らして寝ててくれる。そんな夜を何度も何度もすごして、後悔なんて、もう何百回も繰り返して。 「でも、どんなに悲しくても、苦しくても、朝が来て、夜がまた来て、それを繰り返してたら、褪せてくるんです」  洗濯をして、干して、乾いて、また洗濯をして。いつか服の色が淡くくすんでいくみたいに。  不思議だ。  何、こんなにべらべら話してるんだろう。  同僚の藤崎さんにだってこんなの話したことはない。もちろん伊都だって、知らないこと。俺だけが胸の内に持っていた痛みを、今、どうして彼には話しているんだろう。 「五年、かかりましたけど、でも」  この手が、温かくて、気持ちイイからかもしれない。 「でも、……」  水の中はひんやりとしていて、俺は逸れに恐怖していたはずなのに、彼の手がとても温かいから、だから、冷たい水さえ心地良いものに思えてきたんだ。温かくて、冷たくて、ごちゃごちゃに混ざる温度は混沌とさせるどころか、身体になぜか心地良いから、ずっと繋いでた。  繋いでいたくて、途中何度か、力を込めて握ってしまった。 「っ」  彼の手が、力を緩めようとすると、まだもう少しと強く握って掴んでいた。その手が、ぎゅっと引っ張られ、そして、膝までつかった透明な水がぴちゃんと音を立てた。  身体を捻って、こちらへ寄り添う彼の動きに水が動いて、水音が、プールに響く。 「……佐伯さん」  触れたんだ。 「!」  彼の唇が触れた。 「佐伯さんっ!」 「す、み、ませんっ」  水音が大きく響いた。慌ててそこから足を引っ込めた俺に水が驚いた音。 「佐伯さん!」  とても大きな水音だったから、きっと、俺の心臓の音は聞こえなかったと思う。彼にキスをされた瞬間、高鳴った胸の音は、たぶん、水音に掻き消されて、聞こえなかった。

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