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第14話 あれはキスですか? はい、そうです。

 あれは、キス? 俺、今、宮野さんと、キス、した? 「っ」  濡れた足もかまわずに階段を駆け上った。ぺたぺたと水音混じりの足音が廊下に響いてる。 唇に柔らかいものが触れて、そして、すぐ目の前にある宮野さんの瞳、俺はびっくりして、慌てて、逃げ出した。  キス、した?  いや、あれは偶然じゃないのか? 何か、ほら、俺の髪か顔に何かゴミとかが付いていて、それを取ってあげようと思った拍子にぶつかったとか。あと、えっと、あれ。あ、あ……挨拶? とか。欧米っぽく? 「……」  いや、キスだった。宮野さんに、キス、された。驚いて、何も言えずに、ただ触れた唇の感触を今も感じながら、逃げてきてしまった。  どうして、キスなんて。 「っ、…………」  息を急いで整えようと、心臓のところのTシャツをぎゅっと握り締めて、荒い呼吸を必死に小さくした。寝泊まりするフロアはとても静かだから、ちょっとした溜め息だって気づかれてしまう。  その中で伊都が寝てた。たくさんはしゃいで、大笑いして、遊んで泳いで、カレーだっておかわりをして。疲れたんだろう。大の字になって口を開けて、よく寝てる。 「……」  あぁ、そっか。慰めてくれたのかもね。彼が今、二十五歳。今の彼と同じ歳くらいの時に、あの出来事があったんだ。それを聞いて、自分だったらと置き換えたのかもしれない。そして、独り身で頑張ってる俺への激励のキス、とかなのかも。  そんな励まし方聞いたことがないけれど。人を励ますためにキスするなんて、普通はしないけど、でも他にキスの理由で思い当たるものなんてない。  俺のことが好き? なんて、あるわけがないじゃないか。  彼が同性愛者だとしてもだ。子持ちの三十路男を好きになるわけがないだろ? だから、それしかない。たぶん、励ましてくれたんだ。 「……」  なんだろう。そう自分の中で、今されたキスの理由を考えれば考えるだけ、少し気持ちが下を向く。 「……ぁ」  そして、伊都の隣に座り込み、下へと視線を向けて気がついたこと。思わず漏れた声が寝静まったフロアに響いた。水着のまま着ちゃったじゃないか。でも、着替えに戻って、もしそこでバッタリ会ったら、ちょっと困るから、もうこのまま寝るしかない。幸い、プールサイドに座っていただけだから水着は濡れていない。朝早くに起きて、それで、下だけ履き変えよう。派手だけど、一見しただけじゃラフな家着と思えなくもないだろうし。  伊都がぐるりと寝返りを打った。と、思ったらまた動く。頭を撫でてやると落ち着いたのか、もぞもぞするのを止めて、穏かな寝息を立てている。  やっぱり、ないよ。  恋愛感情を持ってくれたとか、それは、ないって言いきれる。  だって、普通に彼はカッコ良いんだ。どうして、俺なんて? カッコ悪いだろ? 三十路で、子持ちで、そして、キス一つにうろたえて水着姿のまま寝るしかない男。恋愛ごとから限りなく離れたところにいる俺に彼が惹かれる要素なんて、ひとつだって、思いつかない。  だから、あれは激励メッセージ代りのキスだ。  そう思いながら、目を瞑った。明日、誰より早く起きられるか、ただそれだけ心配していよう。それと、伊都になんて報告しようか。ただそれだけを考えておこう。  早く起きられるかどうかなんて心配する必要なかった。 「はぁ……」  ほとんど眠れなかった。もう昨日のキスはなかったことに、ただ、ありがとうございます。水に足をつけられたからきっとそのうち泳げるようになります。そう、コーチとしての彼にお礼だけ言って忘れようと思った。  思ったのに、考えなくても、唇に残るキスの感触と目の前にあった彼の顔が、目を瞑る度に鮮明に蘇ってくるから、眠れなかった。 「伊都、そろそろ起きな」 「んー……」  肩を優しく揺らしても、わずかに反応するだけで起きる気配はまったくない。よっぽど疲れてたんだろうな。たくさんの人と一緒に寝るのとか、慣れてないことのはずなのに横になってしばらくしたらもう寝息が聞こえていたから。 「伊都、ほら、朝ご飯だよ」 「んー……お父さん?」 「ほら、起きて。お父さん先に行って顔を洗ってくるから」  目をゴシゴシ擦りながら、大きなあくびをひとつ。いきなり起きることはせずに布団の上を転がって、ダンゴムシのように丸くなったと思ったら、仰向けだと気がつかなかった寝癖がぴょんと跳ねた。「ふわぁ」ともうひとつあくびをしてから起き上がった。まだボーっとしてる。半分寝ているような顔で、洗面所へと向かう俺を眺めてた。  すごい寝癖だ。  頭が本当に爆発してるみたいになってる。でも、今日も朝食の後、少ししたらスイミングがあるからそこで寝癖は直ってくれる。  顔洗ってシャキッとしないと。今日はスイミングの後、そうだ、皆でアスレチックをするって言ってたっけ。  あその後で平気かな。宮野さんのところに行くのは。昨日は逃げ出してしまったけれど、伊都のコーチとしてあと約三週間はお世話になるんだ。変な話をしてしまって、余計な気を使わせてしまいました。すみません。って、言って、それで――。 「佐伯さん」 「!」  それで昨日のことはなかったことにって、言おうと。 「あ……」  思ったのに。  彼の顔を見た瞬間、顔を洗う前のだらしない顔してるかも、とか、考えてしまった。朝日の中で変な顔してないかなとか。そして、視線がぶつかったら、途端に唇が昨日の感触を思い出してしまう。挨拶だとか、励ましだとか、そんなの忘れて、ただのキスと思ってしまう。  昨日あんなに理由を自分の中で考えたのに、そんなの頭から吹き飛んでしまう。  励ましてくれてありがとう、スイミングのコーチ宜しくお願いします。昨日は水に入れてびっくりしました。たくさん励ましてくださって。 「あの……」 「佐伯さん、昨日は」  ありがとうございます。昨日のことは忘れましょう。そう言う予定だった。なかなか寝付けない布団の中で何度もそれを繰り返し呟いてただろ。 「あ、えっと、宮野さん、の、おかげで、俺、水がっ」 「昨日のキ、」 「お父さぁぁぁん! あっ、コーチだっ!」  さっきまで寝ぼけてふにゃふにゃだったはずの伊都の元気で大きな声にふたりで飛び上がった。 「お父さん、泳げたっ?」  そして無邪気に飛び込んでいた伊都の質問にもっと戸惑う。 「あ、えっと、まだだけど、でも、水の中に足はつけられたよ」 「うわぁ、すごいじゃん! お父さん! プール一緒に行ける? 海とかっ! 今日も練習するんでしょ?」 「んー」  かっこ悪いなぁ、って、自分でもちょっと情けない。 「あ、えっと、すみません。宮野さん、色々ありがとうございました。あ、今日も伊都の練習お願いします」  顔が熱くて、それにつられたように、彼が触れた唇のところがじんわりと熱くなって、意識してしまう。自分の唇の上に残る感触が気になってちゃんと話せない。  何をそんなに大袈裟に意識してるんだよ。彼にしてみたら、そんなつもりきっとないのに。 「失礼します」 「佐伯さんっ」 「伊都、おいで」  キスひとつになんで、四つも年上のくせにこんなにも動揺してしまうなんて。 「お父さん?」 「なんでもないよ。朝ご飯、皆で作るんだって。行こう」  すごく、カッコ悪い。

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