15 / 113
第15話 熱帯夜
伊都のスイミング見学、三階でよかったって、初めて思った。三階だったら、彼は並行のところのにないから、視線は一方通行で済む。これが同じ二階だったら、何かの拍子に目が合ってしまうかもしれない。なんて、そう思うことも自意識過剰かもしれないけれど。
バカみたいだ。
たかがキスひとつに一日逃げ回ってた。どう接したらいのかわからないなんて、年上なのにダサいよ。恋に慣れてない女の子じゃあるま――。
「!」
違う違う。恋じゃないから。まず、ほら、性別が同じ男だから。同性愛者じゃないのに、どうして、同じ男の彼にそんな単語が飛び出すんだよ。びっくりした。ぽろりと胸の内に落ちてきそうな単語に慌てて扉を押さえて鍵を閉めるように、ぎゅっとその単語を追い出した。
そんなことばかりをグルグルと考えてる一日だった。夕飯の時だって、宮野さんの視界に入らないようにさりげなく席を移動した。宮野さんにしてみたら、コーチとして泊りがけの仕事でもあるから、俺ひとりになんてかまっていられない。プールの責任者としても、あっちこっちと忙しそうにしていた。
だから、ちょうどよかったんだ。
夜に水泳のレッスンを無料で受けるなんて、止めておいたほうがよかった。もう足を水につけられたんだし。入れてしまえば、昔泳げたのを思い出せるから、あとは自分でどうにでも。
「お父さん」
「ん? どうした? 伊都」
「今から、肝試し大会やるんだって」
「え? 肝試し?」
そんなのあったっけ? 明日のキャンプファイヤーは知っていたけれど、肝試しは知らなかった。あ、でも、そっか、肝試しっていうくらいだから、コーチ陣も皆を驚かせようと内緒にしてたのかもしれない。この合宿に参加している大体の子どもが小学生だから、そういうイベントは一番好きだし、盛り上がるんだろう。
「うん。えっと、八時にスクールの裏側にある林の入り口んとこに集合らしいんだけど、俺、友達と一緒に行っていい?」
「え? そうなの? そしたら」
「友達と一緒に行きたいんだ。すぐそこだし。ダメ?」
「いいけど、どこのお友達?」
「あの子!」
伊都が指差した先に男の子がひとり立っていた。小学低学年の伊都とほぼ同じくらいの歳。でも、知らない顔だから、きっと短期レッスンの子じゃないんだと思う。伊都と合いそうな感じの少しおっとりした子だった。
「いい? あの子のお母さんも一緒だから」
「あ、じゃあ、ご挨拶を」
「平気! 俺がしといた! だから大丈夫!」
「大丈夫ってそういうわけには」
「お父さん、男だから手伝って欲しいんだって。重たいもの運んで欲しいんじゃない?」
「あ、ホント? じゃあ、先に行ってるけど。ちゃんと向こうのお友達と一緒に来るんだよ。夜道だから」
わかったわかったって言って伊都が背中を押す。たしかに男性保護者は少ないから、力仕事があるのなら手伝わないと。お化けとか、何か道具を運ぶのかな。夜道だし、女性にはたしかにやらせられないかも。
「伊都! 気をつけて来るんだよ! お父さん、先に行ってるから」
「はーい! 頑張って」
八時だっけ? 肝試しが始まるの。スポーツクラブの入り口にある時計を見たら、もう八時になるところだ。慌てて、サンダルをつっかけて裏手にある林の入り口へと急いだ。
外に出ると、まだ日中の熱気がむわっと立ち込めていた。それとあっちこっちから聞こえる鈴虫の大合唱。子どもの頃を思い出して懐かしかった。結婚してからは駅前のアパート暮らしだったし、今いるところも住宅地の中だから、鈴虫の音よりも小さな子どもの泣き声とかがよく聞こえてくる。
夏らしい暑くて、じめっとした空気にほんの少し混ざる夜の風が心地良い。
それにしても、肝試しが始まるのって、八時、なんじゃないのか? 腕時計してこなかったけど、でも出て来る時に八時くらいだったのに、誰も来ない。
「……」
それに、コーチ陣らしき人もいない。
ここでいいんだよね? 林の入り口なんて、夜に通る人はないと思われてるのか街灯もなくて、数十メートル離れたところの街灯しか頼りになる明かりはない。
周りは真っ暗で、誰もいなくて――そして、何か、虫とかじゃない、何かが背後で動いたような気配がした。と、同時に肩に重さが。
「ぎゃあああああああ!」
「佐伯さんっ!」
叫んだとほぼ同時、名前を呼ばれた。
「ぇ……へ? ぁ、みや……の、さん?」
「すみません、あの」
びっくりして、叫んだ瞬間、心臓が本当に口から飛び出したと思った。振り返ると、俺の叫び声に驚いた宮野さんが目を見開いているのが、薄っすらとした明かりでわずかに見えた。
「へ? あ、えっと、肝試し……手伝って欲しいって」
「肝試し? あの、佐伯さんが、ここで待ってるって」
伊都が。
伊都君が。
そう、ふたりの声が重なった。
「え?」
もう一度声が重なって、そして、しばしの沈黙。
「! 伊都っ! あの! すみません! 伊都が何か、えっと、悪戯をっ」
伊都がここに俺たちふたりを呼んだんだ。もう、伊都は、何を考えて。肝試しなんてないじゃないか。急にそんな企画があるなんて、知らないのは当然だ。だって、そんなイベントないんだから。どうりで、さっき、あの友達の保護者に挨拶しようとするのを必死で阻止するわけだ。あそこで俺が話しかけたら、伊都の計画は台無しになるから。
「ごめんなさい。疲れてるとこ。きつく言って聞かせますからっ」
「あ、いや、いいんです。あのっ」
「!」
「俺は、本当に話したかったから」
手を掴まれた。昨日と同じように熱い手に掴まれて、今度は一瞬で全身が火照った。昨日みたいに冷やしてくれる水はない。熱帯夜らしい暑さと湿気に、身体が熱くなっていく一方だ。
「たぶん、今朝の俺と佐伯さんの様子を見て、心配してくれてるんだと思います。昼間、レッスン中にも訊かれたから」
「え?」
「お父さんと喧嘩したの? って」
そこで、逃げないでって言うみたいに俺の手首を少し強く握るとか、そんなことをされたら困る。
「喧嘩してないよって言ったけど」
「あ、あの」
もうこういう心臓の飛び跳ね方なんて、どう対処したらいいのかわからない。伊都とか家事のことじゃなくて、一日中、それ以外の誰かのことを考えるなんて、してないから、困るんだ。
「昨日のキス、俺は」
「わっ! 忘れますから! あのっ、ありがとうございます」
「ぇ?」
「俺がシングルファーザーで! 大変だったり、それに五年前のことを聞いて、同調してくれたんでしょ? 励ましてくれたの、あの、嬉しかったです」
唇が夏の日差しを残した夜の空気よりももっと熱くなって、林をすり抜けて駆けてきた風に触れると、痺れたみたいになった。昨日のキスがまた蘇ってしまう。
ありがとうございます。これからも頑張りますね。それと、忘れますから、宮野さんもどうかお気遣いなく。
そんな長い台詞言えそうもないよ。
「忘れないでください」
「!」
「頑張れなんて励ますつもりなら、キスしないですよ」
宮野さんに捕まえられた手首から全身が熱に包まれてしまう。
「挨拶でもないし。あれは」
あれは、なんですか? なんて、彼の唇を追いかけるように見つめてしまう。
目が合っただけで飛び跳ねて、触れられたら、そこがどこでも、まるで別物みたいに熱くなって、やたらと感触だけが残ってしまう。触れられてしまったって、とても嬉しいそうに肌が、記憶が、噛み締めてしまう。
キス、したら、そのことで頭がいっぱいになる。
「好き、だから、キスしました」
それはまるで「恋」みたいに全身を火照らせていく。
ともだちにシェアしよう!