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第16話 恋がやって来た。
この辺でもこれだけ街灯の明かりがないと綺麗に星が見えるんだ。真っ暗な空にポツポツと光の粒が散らばっている。毎日、忙しくて、仕事が終わった後の数時間は本当に嵐みたいに分刻みで動いてるから、小学生の伊都を夜更かしなんてさせられないし、星空、なんて、見る暇なかった。
久しぶりに見た星空は綺麗で、高揚した。空に、そして。
――好き、だから、キスしました。
彼の言葉に。
虫の声、それと、すぐ隣で風が吹くたびにざわつく木々の音。その中にもうひとつ、俺の心臓の音が混ざっていく。
彼に掴まれている手首が痛いくらいに火照ってる。彼に捕まえられているんだと確かめるように、そこばかりを熱くさせて、俺に教えてくれるんだ。ほら、見て、彼の手に捕らえられてるって。
「あ、あの、俺、男ですよ」
「知ってます」
知ってます、って、わかってます? 男で、宮野さんだって男なのに。
「好きです」
告白と一緒に彼の手が更に熱く感じられた。そこばかり過敏になって痺れてるみたいに、ジリジリする。
「そ、それに、子持ちです」
「はい」
「あの、はいって、だって」
「好きです。男同士ですけど、好きです。伊都君のお父さんとして頑張っている貴方のことも好きです。一緒にいたい。もっと話したい。貴方の近くに居座りたい。キス、したい」
そんなに何度も「好き」なんて言わないでください。
「そう、思ってました。昨日のキスは、貴方のことが好きだからしました。ひとりでずっと耐えている貴方を守りたいと思った。そばにいたいって」
もうこういうの慣れてないんだ。どうしたらいいのかわからないんだ。どう、対応すればいいのか、男同士で年上で、子持ちの俺がどう彼に答えればいいのか、そういうの忘れてしまった。
「佐伯さんは……俺のこと、どう思ってます」
「え?」
どう対応すればいいのか、でなくて、どう思ってるか? そんなの。
「気持ち悪いって思ったのなら、もう二度とこういうことはしないし、コーチも別の人に変えてもらえるようにします。イヤでしょ? 自分のことを好きな男に伊都君のこと」
「そんなの! ないです!」
慌てて、勝手に口が答えてた。そんなこと思ってない。全然違う。そんなのない、って、彼の否定を急いで声で搔き消した。
「宮野さんのことを気持ち悪いと思ったことなんて、本当に一度だって」
「……本当ですか?」
覗き込まれて、何度も頷いた。
やめて。たとえ、本人であっても、宮野さんのことを否定するようなことを言わないで。本当にそんなこと思ったことない。気持ち悪くとか、伊都に関わらないで欲しいとか。これっぽっちもないから、悲しいことを言わないで。
「ど、して、そんなふうに言うんですか。イヤだなんてこと」
「だって、逃げるから」
「そっ! それは! どうしたらいいのかわからなくて! だって、もうずっと」
「……ずっと?」
こういう胸のときめきなんて感じてなかった。誰かを想って焦がれて、その人のことで頭がいっぱいで、一つ一つの行動を目で追いかけて、笑ってくれるだけで心が弾むなんてこと。もっと話したい。あの笑顔が二人っきりの時に見せる、特別な、少し内緒の笑顔だったら、どんなに嬉しいだろう、なんて思ったり。そんなの。
「ずっと……」
もう、恋の仕方なんて、忘れてしまった。触れてくれた、捕まえてくれた掌に蕩けそうな、そんな恋。
「ずっと、誰かを好きになるなんてこと……」
これが恋だと気がつくのにも時間がかかるほど、疎遠だった。
「佐伯さんの好きな人って?」
会いたい、話したい、この人の近くに行きたい。ふたりっきりになることに喜んでしまう。君に出会ってすぐに沸き起こった感情のひとつひとつが「恋」だったのに、それを認めるまでにこんなにうろたえてしまうほど、「恋」を忘れていた。
「意地悪を、しないでください」
「聞きたいんです。ちゃんと、貴方の口から」
「……」
「不安だから」
その一言に慌てた。君を、不安にさせてしまうのも、悲しませてしまうのもイヤだと思った。でも、俺が不安にさせてしまえることに、胸のところが疼く。じわりと熱が滲んでいく感じ。
今、胸のところに滲んだのは、恋、だ。
「宮野さんのことが」
真っ直ぐ見つめられて、胸のうちにある熱が騒ぎ出す。むせ返りそうなくらい、内側で何かが踊って跳ねて、じっとしてくれない。
恋って、こんなだったっけ。
「……好き、です」
こんなに騒がしくて、暴れてて、全く自分の思いどおりになんてなってくれないんだっけ?
ほら、目の前で君が「ふぅ」と小さく溜め息を漏らしただけで、その吐息の意味を知りたくなる。呆れたんだろうかとか、もう今、この瞬間に嫌われたんだろうかとか、不安が暴れて、止められなくなる。君の溜め息の理由を知りたくて、どうにかなりそうになるんだ。ねぇ、ねぇ、って「恋」が内側から俺を突付いてくるから、ちっとも落ち着かない。
「あの、宮野、さん?」
口元を押さえて、視線を逸らす彼の頬が暗がりでもわかるほど、真っ赤だった。
「宮野さん?」
「すげ、嬉しい」
「……」
「昨日、の、怖がらせたと思ったから。」
身体が勝手に動いてしまった。ゆっくりそっと自分の辛かったこと、穏やかな声で話す俺に、気がついたらキスしていた。もう口も聞いてもらえないだろうし、スイミングも止めてしまうだろう。ご近所だけれど、それすら不快に思わせてしまうかもしれない。
「朝、話そうと思ったけど、それも無理っぽくて。だから、伊都君にはホントあとでお礼言わないと」
「あ! そうだ! 伊都! すみません! もう、何をっ! 宮野さん疲れてるのに」
スイミング教えて、その後、子どもたちとのレクリエーションも中心になって仕切ってた。一日中、身体を動かしてたんだ。水の中ってやたらと疲れるし。ヘトヘトだろうに、わざわざこんなところまで連れ出したりして。しかも、企んでとか。宮野さんに迷惑をかけて。
「ちゃんと注意しとかないと」
「あのっ!」
手首を掴む彼の手が力を緩めた。ぎゅっとされてると緊張してしまうから、ふわりと軽く掴まれて、ホッとするような。少し寂しく感じるような。
恋って、こんなにワガママなものだったっけ。笑顔が見たい。話がしたい。こっちを向かないかな。したいしたい、って、欲しいものばかりになってしまう。
「伊都君には後でありがとうって、言いたいから、怒らないでください。それと、もう少しだけ、戻るの後ででもいいですか?」
「……ぁ、え?」
「散歩とか、少しだけしても、いいですか?」
「……」
したいしたい、もっと、したい。恋は欲しいものばかりが増えていく。こっちを向いてよ。話がしたい。ねぇ、もっと一緒にいたいよ。ふたりっきりで、ほんの少しでいいから。
「俺も……はい、したいです」
散歩、したい。君ともっと一緒にいたいんだ。
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