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重なる心、溶け合う魂
「赤津、後頼むわ」
「…………はい」
コンビニの交代時間。
ワンオペ夜勤の準備を始める俺の耳に、夕勤の2人の会話が聞こえてきた。
「赤津ってさ、女とつき合ったことあんのかな?」
「あぁ~。アイツさぁ、そもそも現実の女に興味ないんじゃね?」
「2次元限定ってか? でもわかるわ~」
「そもそもあんなデブ、俺が女ならオタクじゃなくてもお断りだな」
「わかる~。少しは痩せる努力しろってなぁ」
恥の多い生涯を送ってきました……なんて言ったら大庭葉蔵に失礼だろう。
太宰治の名作『人間失格』の主人公、大庭葉蔵は、数多くの女性を惑わした絶世の美男子だ。
対して俺……赤津孝憲は、39年の生涯で1度も女性と交際したことがない。
投稿小説サイトは、数年前からの異世界転生ブームが終わらない。
主人公がチート能力を持って異世界へ転生し、美少女たちにチヤホヤされながら活躍する、ストレスフリーなファンタジー。
それをテンプレ通りに書けば多少は読んでもらえるとわかっていたが……無理だった。
俺には“恋愛”というものが理解できない。
「孝憲はゲームばっかりして! そんなもの、将来何の役にも立たないって言ってるでしょ!」
「だったらゲームなんか買い与えるなよ、うるせぇな」
「買い与えたのはお義父さんとお義母さんよ! あなたから孝憲に買い与えないように言ってよ!」
「…………ゲームくらいいいじゃねぇか。息抜きくらい必要だろ?」
「あなたがそうやってお義父さんとお義母さんに刃向かうことから逃げるから、孝憲が勉強もスポーツもしないで遊んでばっかりなのよ! このマザコン男!」
「俺のせいにすんじゃねぇ! こいつの母親はお前だろうが!」
「あなただって父親でしょ! この子を妊娠した時に責任取るって言ったじゃない! 少しは子育てに協力しなさいよ! 休日は寝てばっかりで!」
「……っ! 誰の金で飯を食ってるんだ! このクソ女が!」
父親が母親を殴る音。
母親の泣き声。
あれが恋愛の行く末なら、恋愛など地獄への片道切符じゃないかと、俺は両親を見ながらいつも考えていた。
母親は俺が物語を楽しむことを拒んだ。
文芸部に入りたいと言えば運動部に入れと言い、文学部に入りたいと言えば経済学部に入って金融機関に就職しろと言った。
弱い俺は、結局母親の言葉に従った。
結果は散々だった。
就職に失敗し、アルバイトをしながら資格をいくつも取得し、また正社員採用に挑んでは失敗し……。
疲れてしまった俺は、ダムに飛び降りかけたのをたまたま通りがかった通行人に止められた。
精神科に通院し始めた俺を、とうとう母親は見放した。
30歳の時だった。
俺が小説を書き始めたのは、母親に見放された後だった。
つまり、三十路を過ぎてからだった。
自分より随分若い文字書きに混ざって、アルバイトをしながら小説投稿サイトに投稿し続けた。
しかし、恋愛だけはどうしても理解できなかった。
三十路を過ぎても、やはり恋愛とは、地獄への片道切符としか思えなかった。
精神科に通い始めてからは、恋愛と依存の区別がつかなくなった。
異世界転生の約束ごとを思い出す。
異世界転生ものでは、ヒロインたちは常に主人公を肯定して褒め称えなければならない。
決して主人公を否定してはいけない。
それではヒロインたちは犬猫と同じで、主人公は犬猫に依存しているだけではないか。
こんな考え方で、ヒット作が生み出せるわけがない。
俺はいつまで経っても、趣味で小説を書いているだけの太ったコンビニ店員。
もっとわかりやすく言えば、非正規雇用でデブのキモオタ。
朝勤に交代してコンビニを出る。
寂しくないと言えば嘘になるが、それでも俺は恋愛や結婚が恐ろしいのだ。
子育てはもっと恐ろしい。
俺は幸せな家庭を知らない。
そんな俺が子供を育てたら、かつての父親のように、暴力と恫喝で子供を苦しめるだけだろう。
俺には大庭葉蔵のような女を惑わす美貌はない。
だが、やはり大庭葉蔵のように、普通の人間の生活というものが見当もつかないのだ。
自分の幸福観念と、他人の幸福観念がまるで違う。
しかし、大庭葉蔵のような美男子が言えば様になるかもしれないが、俺がこんな言葉を口にしても「ブサイクな男のメンヘラはキモい。無理」で終わりだろう。
俺は俺なりに、頑張って、努力して、必死に人生を生きてきたつもりだ。
けれど、もがけばもがく程、全てが裏目に出てしまう。
俺には『要領の良い生き方』というものが、さっぱりわからない。
朝の日差し。
出勤する人々。
真逆の方向へと進む俺……何という皮肉か。
集団で横断歩道を渡る小学生たち。
普通の人間の生活に溶け込めていたのなら、俺にもあれくらいの子供がいただろう。
そのうちのひとり、小学1年生らしき新品の大きなランドセルを背負った男の子が少しずつ集団から離れていく。
慌てて追いかける男の子は焦っていたのか、横断歩道の真ん中で転んでしまう。
気づかない集団。
捻挫したのか、起き上がろうともがくが起き上がれない男の子。
そして……。
男の子に、信号無視のトラックが突っ込んでいく。
考える前に駆け出していた。
こんなに走ったのは学生の頃以来だろう。
走って、走って。
「生きろ! どんなに辛くても、地べたを這いつくばってでも、とにかく生きろ!」
そう叫びながら、動けない少年を突き飛ばし、俺は……。
かつてダムに飛び込もうとした俺が、どの面下げて生きろなどと叫ぶのか。
しかも、俺の死にざまを目の当たりにした男の子は、そして小学生たちは、この先ずっとトラウマやサバイバーズギルトに苦しむことになるかもしれない。
それでも……もう遅い。
最後の最後まで俺は、自己満足のエゴで他人を苦しめるんだ。
本当に……救えねぇ。
あぁ……けれどせめて。
“恋愛”というものが何なのか、知ってから死にたかったな……。
*
「お父様は、あなたのことも、私のことも、人間とは思っていないのよ」
お母様が、口癖のように僕に繰り返し語っていた言葉。
「お父様にとって、私もあなたもトロフィーなのよ。所有物なのよ。人間じゃないのよ、私も、あなたも」
お母様は繰り返す。
「他に愛する人がいて、愛する人との間に子供が産まれたの。あなたの弟よ。シルヴェスターと言う名前らしいわ。でも、お父様にとってはシルヴェスターが唯一無二の息子でしょうね。あなたは私……ロータリアの姫を手中に収めたという生きた証。それだけの存在なのよ。息子としての価値も、生きた人間としての価値も、ないの」
お母様は、何度も何度もそう繰り返した。
そして僕の7歳の誕生日に、鏡の前でナイフを胸に突き立てて、命を……。
僕はもう、どうやって生きたらいいのかわからなかった。
屋敷の誰かに指示されるままに行動して、指示されるままに食べて、指示されるままに動いて、時々お母様が命を断った場所……鏡をぼんやりと覗いて。
その時だった。
僕はある男の人の人生を見た。
彼は確かに僕だった。
別の世界の、もうひとりの僕。
彼は生きたがっていたけれど、既に身体を失ってしまっていた。
だから僕は、彼に手を伸ばした。
僕の身体をあげる。
僕をあげる。
だから、僕の手を掴んで……。
白昼夢の中、彼に叫んだ。
彼が知りたいと願っているもの、“恋”や“愛”は、僕自身も知りたいと願っていたものだ。
お母様は、なぜあんなにも苦しんだのか。
お父様は、なぜあんなにもお母様を苦しめたのか。
“恋”とは、“愛とは”、何なのか。
彼が、僕に手を伸ばす。
彼の中に僕が溶けて。
僕の中に彼が溶けた。
だって僕らは、同じ魂の持ち主だもん。
赤津孝憲。
君が知りたいことは、僕が知りたいことでもあって。
君がしたいことは、僕のしたいことでもあるんだ。
君は僕の人格が君に食われて失われたと思うかもしれないけど……違うんだ。
元々僕に人格はなかったんだ。
僕はお母様や周囲に指示されるがままに動く生き人形。
だからね。
僕の身体で、君の好きなように生きて。
僕は君の中で、それをずっと見ているから。
正義を貫き生きてもいい。
悪逆に手を染めて生きてもいい。
ただ、約束して。
“恋”と“愛”を探求し続けて。
それを知りたいという願望が、僕と君を結びつけたのだから。
さぁ、目を開けて。
君はもう赤津孝憲じゃない。
来世の君、ヴァニタス・アッシュフィールドだよ。
*
俺の名前は赤津孝憲。
39歳、デブのキモオタ。
それがつい先刻までの、俺に対する自他共に認める正当な評価だった。
大学に進学したが、就職できず。
アルバイトをしながら小説を書き続け、気づいたら四十路手前。
金もない。
地位もない。
名誉もない。
ついでに魅力もない。
どう足掻いても人生詰んでる男、それが俺だった。
だがしかし。
今目の前にある鏡に映る俺は、テレビドラマでしか見たことのないような美少年だった。
黒髪に金色の瞳が不気味ではあるものの、これが黒い瞳だったら、親戚の誰かが某事務所に履歴書を送りそうな程の美少年だった。
「どうしました?ヴァニタス坊っちゃま」
使用人っぽい男女が、鏡を見たまま呆然としている俺を見てオロオロしている。
異世界転生キタコレ。
そういえば、コンビニの夜勤のバイト帰りにトラックに跳ねられた気がする。
つーか、異世界転生モノのトラック運転手、毎回ご苦労様だな。
たまには異世界転生者を跳ねるトラック運転手が幸せになるような物語を書いてくれよ、全国の物書きよ。
……俺もか。
まぁ、それは横に置いておくとして。
豪華な部屋。
オロオロする使用人。
ほぼ間違いなく勇者ルートではないな。
つまりは悪役令嬢ルートか。
ん?男だから悪役令息か?
では、まず今俺がいる世界がどの世界なのかの特定からだな。
異世界転生モノのお約束に従えば、この世界は俺が知ってるゲームかアニメか漫画か小説か何かの世界だ。
うーん。
まずは……。
「俺の名前、ヴァニタスって言うのか?」
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