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第1話
「うえーん、波多野 さーん」
その日、波多野が自分のデスクで仕事をしていると、半泣きで班員のひとりである西利 がやって来た。メールを作っていた手を止めて、波多野はふっと視線を上げる。西利は今日もかわいい花柄のワンピースを着ていて、それがひどく目に眩しいような気がした。パソコンを操作する時だけにかける眼鏡を外して、デスクの上に置くと、泣き真似なのかそれとも本気で泣きそうなのか、どちらなのかよく分からなかったけれど、とりあえず目の前に立っている西利は泣きそうな表情を浮かべている。
「どうしたの、西利ちゃん」
「志麻 さんがぁー、異動になるっていうからぁ・・・」
顔を覆って途中で西利の言葉は途切れる。するとその西利の後ろから、ヒールが床を踏む、若干暴力的な音が聞こえてきて、波多野はそちらに視線をやった。西利が話しているまさにその人、藤本が西利とは真逆の怒りの形相でこちらに近づいてくるのが目に入った。波多野がそちらを見やったのが分かったのか、西利も顔を上げて振り返って藤本の姿を確認した。
「あー、志麻さーん!」
「西利うるさい」
飛びつこうとした西利を左手だけで制すると、藤本はイライラした表情のまま波多野のデスクの前で止まった。どうやら藤本が用事があるのは、西利ではなくて波多野らしい。今日みたいに藤本は西利に対してとても辛辣だが、なぜだかそんな二人の間には妙な信頼感があるらしくて、西利も藤本には特別懐いているように見える。波多野は誰にも言わなかったけれど、ちょっとどんくさくてひとに甘えっぱなしなところがある西利と、割り切り系で見る人にとって見れば、少し冷たい印象のある藤本は、いいコンビだと思っていた。
「波多野さん」
「・・・どうしたの、志麻ちゃん、そんな怒った顔して」
「私異動になるなんて聞いてません、取り消してください」
狭い事務所の中で、配置換えは珍しかったけれど、それでも時々それは行われた。特に波多野の班は、新人教育のための班であり、大体の所員が波多野の班で経験を積んだ後、外に出て行くのが常だった。それが藤本だけは「波多野さんの班にいたいから」というよく分からない理由で、所長である真中に直談判をして残っている現状である。それには真中も困っているようで、結局本人の意思を尊重しない形で、内示が出たのがこの間のことであった。波多野もそれを藤本が知れば、こんな風になることは何となく分かっていたけれど、思ったより怒っているなぁとのんびり思いながら、藤本の顔を椅子に座ったまま見上げた。
「志麻ちゃん、もうこれは決まったことだし、そんなに簡単には取り消されないと思うけど」
「言いましたよね、私。波多野さんの班がいいって、他のところなんて行きたくありません」
「どうして、サトくんの班がそんなに嫌なの?君ら仲いいじゃないか」
藤本の異動先は堂嶋の班だった。人事の決定権を持っているのは、真中とそれから波多野だけだった。柴田が副所長という事務所の中でナンバーツーの椅子を持っていることは、周知の事実だったが、真中は人事の決定権だけは、事務所を創立した時と変わらず、波多野と二人で決めることで譲らず、柴田は人事会議には出席していない。その真中とふたりで、藤本が納得いく班はどこかと密かに話し合ったのが、記憶に新しい最近のことだった。堂嶋はリーダーの中では一番の若手だったけれど、その分班員はのびのびと自分たちの仕事をしているように思う。藤本もその実力があるのだから、いつまでも自分と一緒に新人教育の手伝いなど、させていては可哀想だというのが波多野の意見であり、藤本に喧々怒られたくない真中は、別に志麻子がここでいいって言っているのだから変える必要はないだろうと、ぼやいていたけれど。
「志麻ちゃん、前も言ったと思うんだけど、僕の班は他の班と違って・・・」
「分かってます、新人教育のための班なんだって、でも別に私ここにいてもよくないですか?日高の面倒もちゃんと見てるし」
「そうですよぉ、波多野さん!志麻さんがいなくなったら日高の面倒は誰が見るんですかぁ、私無理ですから」
西利が勝手に割り込んできて、藤本の眉間の皺を増やしている。日高というのは、最近入ってきたばかりの新人で、藤本が教育係をやっているが、その不出来ぶりに藤本はそれこそ悩まされているようだった。しかし、はじめのころは藤本が一方的に日高を怒鳴ってばかりいたようだが、最近は普通のトーンで談笑しているのが、波多野の席からも伺えて、何となくうまくやっているのだろうなと、あまり干渉しないスタイルの波多野は勝手に思っていた。藤本が異動してしまったら、日高の教育係については再検討しなければいけないところであるが、確かに西利とは相性が悪そうだし、任せられそうになかった。
「いやまぁ、それは追々考えるけど・・・でも志麻ちゃん、ここにずっといたら君の仕事の幅は狭いままだよ、他の班にいったらプロジェクトリーダーとか、そういうことだってできるけど」
「別にそんなのやりたくありません」
「・・・困ったなぁ」
藤本がやけにはっきり言うので、波多野は本当に困ってしまって、口から本音が零れた。ちらりとパーテーションで区切られた隣の領域に目をやる。そこで副所長の肩書のついた柴田は、俯いて手元の資料を読んでいる。隣でこんなに大声で喋っているにも拘らず、集中しているようで全く気にしていないようだった。柴田のさらに向こうに壁で区切られた一角があり、そこが所長の真中のいる所長室だった。今日、真中は事務所内にいるのだろうか、考えながら助けを求めるみたいにそこを見やっても、ここからでは中の様子は分からないし、手前の柴田は全くこちらに気づく様子がないしで、八方塞がりだった。
「うーん、分かった。正式な決定はまだだからさ・・・まぁ覆らないと思うけど、とりあえず志麻ちゃんの言い分は真中さんに伝えてみるね」
そんなことはこの場しのぎの言葉でしかないことは分かっていたが、波多野は眉を吊り上げる藤本に向かって、できるだけにこやかに見えるように頬を緩めてそう言った。藤本はそれを聞いて、その利発そうな唇を一度だけきゅっと丸めた。表面上は波多野が根負けしたが、藤本にもそれが表面的なことであって、確約ではないことが分かっているのか、それを聞いても藤本はひとつも嬉しそうな顔はしなかった。不思議に赤い色をしていて、残業が多くて所員の大体が顔色の悪い事務所の中で、やけに血色がよく見えた。若いせいなのか、口紅が優秀なのか、どちらでもいいことを考えてしまう。
「波多野さん」
「・・・ん?まだなにかある?」
藤本はその茶色い目に長い睫毛で影を落とすと、ジャケットの上から寒そうに右腕を左手で擦った。何となくそれだけの動作で、彼女が何か他に言いたいことがあるのだろうと、勝手に波多野は推測を立てる。真中にでも柴田にでも、何でもズバズバと言ってしまえるのが彼女の美点であり、欠点であったから、そんな風に藤本が何かを逡巡するなんて珍しかった。
「私、波多野さんの班にいるの、迷惑ですか」
「・・・え?」
いつも勝気の彼女が、そんな風にしおらしく呟いたのを、波多野ははじめて目の当たりにしていた。思わず声がかすれる。隣で様子を伺っていた西利も、ただ黙って藤本の伏せられた目のあたりをじっと見ていた。じっと見ていたらそこから涙でも出てきそうで。
「・・・そんなことないよ」
波多野は口先だけの慰めの言葉をいつも呟いてしまう。それがどんな形になって自分の元に返ってくるかを、本当は分かっているはずなのに、いつも。
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