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第2話

その日、波多野が自宅に戻ると、今朝出てくる時には閉めたはずの、自宅の扉が何故だか開いていた。鍵の閉まっていない扉を開けると中の電気がついていて、玄関には見慣れぬスニーカーが脱ぎ散らかしてある。それを拾って揃えると、波多野は自分の革靴を脱いでその隣に同じように揃えた。廊下を進んでリビングに続く扉を開けると、グレーのパーカーの背中が見えた。するりと足元にすり寄ってくる真っ白の猫のラグドール、ソワレを抱き上げて波多野は後ろ手で扉を閉める。大型のテレビはゲーム機に繋がっていて、山の中を軽装備の人間がうろうろしている姿を映している。 「あ、おかえり、弓弦(ユヅル)さん」 「・・・ただいま」 画面が動いて『pause』と英語が大写しになり、テレビの前に座っていた男はコントローラーから手を離すと、ぱっと振り返ってにっこりと笑った。ソワレが波多野の腕からするりと降りて、男のほうに寄って行く。 「冷蔵庫にあったシュークリーム勝手に食べちゃった、ごめん」 「いや、別にいいけど。どうしたの、突然、(ナギ)」 ソファーに投げられた凪の制服のブレザーと、ベージュのダッフルコートを取り、それをハンガーに通してコートかけにかけておく。制服のまま来たということは、家に帰っていないのだなと思いながら小さく溜め息を吐く。凪はくるりと波多野に背を向けて、またコントローラーを握っている。その胡坐をかいた膝の上に乗って、元々そうしていたようにソワレは丸くなった。凪のグレーのパーカーの下は制服のカッターシャツのままだった。 「んー・・・家がごみ屋敷になってきたからさぁ、ちょっと暫く泊めてよ」 「それは別に構わないんだけど、ちゃんと陽毬(ヒマリ)ちゃんには言ってきたの?」 「してない、クソババアは何日も帰ってきてねぇよ」 言いながら凪はこちらに背を向けたまま、あははと笑った。陽毬というのは凪の母親に当たる。そして波多野と婚姻関係にある女性の名前である。陽毬は理研で働く研究員であり、昔から研究のほうが忙しくなると家を空けがちになり、凪も性格上、片付けなどを面倒臭がるので、家はいつの間にかごみ屋敷になることも珍しくはなかった。そしていよいよ自分の生活スペースがなくなってくると、凪は自宅を飛び出して、近くに住んでいる波多野の自宅に転がり込んでくる。波多野は凪のグレーの中を見ながら、またかと声には出さずに思った。よくあることだから、凪にはいつでも来ていいと言ってあるし、合鍵も渡してある。だから今日、閉めたはずの扉が開いているのが分かった時、凪が来ているのだとほとんど波多野は確信していた。 「とりあえず、僕から陽毬ちゃんに連絡しとくね」 「・・・別にいいけど、でも陽毬が帰ってこいって言っても俺帰らねぇし」 言いながら凪は、分かり易くコントローラーを握る手に力を込めた。波多野は鞄の中から携帯電話を取り出すと、電話の内容は凪に聞かせられないと思って、とりあえずリビングを出た。忙しいと陽毬は連絡もつかなくなる。波多野と陽毬は大学の同期で、学部は違ったけれど、その頃から陽毬は頭がいいことで有名人だったけれど、一方で研究に没頭するあまり他のことを疎かにしてしまう厄介な癖があり、そういう意味では変人でも有名だった。凪の言い方ではしばらく家に帰ってきていないようだし、忙しいのだろうということは分かった。電話に出てくれるだろうかと一抹の不安を抱えながら、波多野は陽毬の番号を呼び出した。 『もしもし、ユヅくん?』 思ったよりあっさりと陽毬は電話に出てくれて、波多野はほっとした。 「ごめん、ひまちゃん。今大丈夫?」 『うん、休憩してるところだから大丈夫。何か用?』 「あのね、今日家に帰ったら凪が来てて、暫くひまちゃんが家に帰ってないって言ってるんだけど」 『あー・・・』 陽毬の答えを待ちながら、波多野はそっと腕時計で時間を見た。もう10時が近くなっている。それなのに休憩しているところ、というのは多分、家には帰れていないのだろう。働き出してからの陽毬は、学生の時よりもひどく研究にのめり込む時間が増えて、しょっちゅう研究所に寝泊まりしているらしい。どうして家に帰らないのかと尋ねてみたことがあったが、行き帰りの時間が無駄だとはっきり言われてしまったのを覚えている。陽毬はそういう合理性でしか物事を判断できずに、時々凪と衝突しているようだった。 『んー・・・ごめん。よく思い出せないけど、一週間くらい帰ってないような気がする・・・』 「・・・分かった、凪はしばらくウチに置いておくから、仕事ひと段落したらまた連絡してくれる?」 『いいよ、そんなことしなくて。凪そこにいるの?今すぐ帰るように言うよ』 「いや、ウチで面倒見るよ、誰か大人と一緒にいたほうがいいと思うし、それに家もごみ屋敷だって言うし」 『なにそれ。ユヅくんに甘えたいだけでしょ。自分でハウスキーパー呼べるんだから呼べばいいのに』 波多野は、珍しく少しだけ怒ったような声色で話す陽毬の声を聞きながら、そうではなくて多分、凪は母親である陽毬の気を引きたくて、一緒にいたくて甘えたくて、そんな風に横暴に振舞っているのだろうと、そう思ったけれどそれを口に出すのは憚られた。まるで一緒にはいられない陽毬の子育てを批判しているように聞こえると、自分で思ったからだ。陽毬は母親に向いていないどころか、そもそも人付き合い自体が苦手で、大学の時は同期にロボットなんてあだ名をつけられていた。そのことをふっと思い出しながら、それを考えてみれば、凪はずっと分かり易くて扱いやすいと思う。 「いいよ、暫くは。ひまちゃんもあんまり根詰めないようにしてね」 『ごめんね、ユヅくん。迷惑かけて』 「迷惑じゃないよ、凪は僕の息子だし」 『・・・そうね』 もう一度だけ陽毬は謝って、それから電話は切れた。学生の頃に比べると格段に、陽毬も角が取れたというか、丸くなったというか、それなりにコミュニケーションをとれるレベルまで、人間性が回復していると思う。怒ったり謝ったりできるようになっているのが、その証拠だ。沈黙した携帯電話を握りしめて、波多野はリビングに戻ろうとすると、リビングに続く扉が少しだけ開いていて、そこから凪がじっとこちらを見ているのと目が合った。そういえばいつの間にか煩いBGMは消えている。 「なぁ、陽毬、なんて?帰れって?俺ぜってー帰んねえぇよ!」 ぱっと扉を開けて凪は切羽詰まった様子で、波多野のほうに近寄ってくると、その腕を掴んだ。どこからどこまでを聞いていたのだろうと思ったけれど、凪の様子では、全く会話の内容は掴めていないのかもしれない。考えながら波多野は凪に掴まれていないほうの手で、必死な形相を浮かべる凪の頭を、それを宥めるみたいにぽんぽんと撫でた。凪の体からふっと力が抜けるのが分かる。 「いいよ、凪はここにいたらいい、好きなだけいたらいいよ」 そうしてにっこり波多野が笑うと、凪は照れたように少しだけ頬を赤くして、たった今掴んでいたことに気づいたみたいに、ぱっと波多野の手を離した。家に帰されると思っていたのか、それがそんなに嫌なことだったのか、波多野にはよく分からない。凪は高校生だったし、別に家に一人でいることで、不安になるような年齢でもなかった。むしろ大人の目がない分、そとで悪い遊びを覚えてもいいような年齢だった。だからこそ波多野は凪を、ひとりになるのなら家には帰せないと思ったのだが。 「怒んないの・・・?」 「どうして。怒らないよ、凪はここにいてもいいんだ、僕たちは家族なんだから」 そう言って波多野は優しく笑ったつもりだったけれど、凪はその表情を一瞬でさっと曇らせた。 「凪?」

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