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第3話

優しく声をかけたはずの、凪のその家に帰りたくないという要求を丸ごと飲んだはずなのに、その時凪がそんな顔をするとは、波多野は全く思っていなくて、それには少しだけ吃驚してしまった。なんでそんな突き放されたみたいな、裏切られたみたいな表情になるのだろうと、波多野は冷静に凪の様子を分析しながら、もう一度確かめるつもりで凪の名前を呼んだ。 「凪?」 「・・・っ」 伸ばした手を寸前で払われて、凪の目に強い意志が戻る。払われた手は痛くて、波多野はもう一度吃驚する。凪のことをいつまでも子どもだと思っていたけれど、そういえばもう16歳なのだ、大人の手なんかこうやって簡単に振り払ってしまうような年齢になったのかと、波多野は思いながらぎゅっと手を握った。そういう目をする凪と、陽毬はあの何もない部屋の中で対峙をして、凪の言葉を聞いても少しもそれを理解できずに、また理解しようともせずに、合理性のみで捻じ伏せてしまうのだろうかと考える。でも陽毬は陽毬だし、たぶん彼女も彼女の方法で、凪とコミュニケーションをとる方法を探っているのだろう。例えばそれがこんな風に徒労に終わっても、陽毬はそれで傷ついたりしないのだろうなと、波多野は不意に思った。そんなことを考えたのは、その時凪に払われた手が、やけに痛かったからかもしれない。 「一緒に住んでなくても家族?」 「・・・え?」 言いながら凪は少しだけ眉尻を下げた。それはさっき波多野の手を強固な意志をもって払った人間と同じとは思えないほど、やけに弱弱しくて頼りなかった。 「俺は、俺は弓弦さんのことを一度も家族だなんて思ったことはないよ」 「・・・―――」 俯いて凪はやけに静かにそう言うと、それからリビングには戻らずに、波多野を追い越してバスルームに向かった。波多野はその背中に、何か声をかけてやらなければと思ったけれど、そんな風に背骨を丸めて逃げるようにする凪のことを初めて見たから、波多野はそれに何と言っていいのか分からなかった。そんなに強く払われたわけではなかったのに、まだ指先はジンジンと痛かった。いつまでも痛かった。 翌日、波多野は目覚ましが鳴る少し前に目を覚ました。携帯電話を見て、夜中に真中からメールが来てないかを確認するのも、なんだかいつものことで慣れてしまっている。ベッドから抜け出して、クローゼットから適当に服を選ぶ。学生の頃は毎日洋服を選ぶのが楽しかったけれど、大人になると着ることができる服が減って、そういう楽しみがなくなった変わりに煩わしさもなくなったような気がする。他のリーダーが外でクライアントや同業者と会わなければいけないことがあるみたいに、波多野にも外に出かける用事はないわけではなかったけれど、多分それは他のリーダーよりもずっと少ないことだった。それは波多野の班が他の班と機能という意味で意味合いが違うからであって、理由はその他にはない。 (あー・・・そういや志麻ちゃんのこと八尋ヤヒロに言ってないな、言わなきゃ) シャツに腕を通したところで、ふっと昨日藤本とやり取りしたことを思い出した。あの後、真中を訪ねてみたけれど、事務所にはおらず、結局その日は帰って来なかったから、まだ話ができていなかった。自分でも少し過剰かなと思っているが、波多野は真中と同じ大学出身で元は友達だったこともあって、お互いのことは名前で呼び合うような仲だったけれど、事務所の中では一応、真中は上司で自分は部下であるという線引きが必要かなと思って、真中と二人の時以外は、真中のことは「さん」づけで呼んでいた。それを初めて聞いたころの真中は、気色悪いと眉を顰めていたけれど、事務所の規模が大きくなって、所員が増えていくうちに、その全員に自分と真中の関係性のことを触れて回るわけにもいかずに、結果的にはこれでよかったのだと波多野はひとりで思っている。 (凪のことも相談しようかな・・・) 考えながら、シャツの上からカーディガンを羽織る。そうして身支度を整えて、波多野が自分の寝室から出たところ、向かい側に一応ゲストルームという体ではあったが、頻繁に泊まりに来る凪のための部屋がある。中はベッドと机とクローゼットくらいしか、物はなかったはずだったけれど、凪が泊まりに来るたびに、ゲームだの雑誌だのお菓子だのと色々持ち込まれて、半分以上波多野はその部屋に何があるのか分からない。クローゼットもほとんど凪の私服が詰め込まれている。その扉の前に立って、昨日みたいに拒絶されたら嫌だなと思ったけれど、声をかけないわけにはいかなかった。 「凪」 声をかけても、部屋の中から返事はなかった。それに限ってはよくあることで、凪は寝室にゲームを持ち込んで、遅くまでそれで遊んでいるようだったから、寝るのはいつも深夜を回っているようだった。だから凪が朝早くからそれこそ自主的に起きてきたりすることは、波多野が知る限り一度もなかった。波多野はそれを時々は注意してみたりもするけれど、凪はそれに一度はいい返事はするが、それが今の今まで改善していないところを見ると、ただそうやって流されているだけなのだろう。波多野は陽毬と違って、凪に甘いところがあり、それを多分凪自身もよく分かっている。 「凪、入るよ」 依然、何の音もしない部屋の扉をノックして、それから波多野はゆっくりドアノブを回した。分かっていて体よく使われていることも、なんとなく波多野は分かっているつもりだったが、それでも凪を目の前にすると、強く出られないのが常だった。それは凪の世話を陽毬に一任していることもそうだし、それに陽毬が決して母親に向いていないことを知っているのに、自分に何の解決策もないことの、自責の念だったのかもしれない。せめて自分のところにいる時くらい、少しくらい横暴に振舞ったって、わがままを言ったって許してやるのが、父親の器量だなんて勘違いをしているのかもしれない。 「凪、おはよう。もう朝だよ、起きなさい」 「・・・うん」 部屋の中は薄暗くて、ベッドサイドのテーブルには、凪の携帯電話とそれから携帯ゲーム機が置いてあった。おそらく昨夜も遅くまでどちらかを弄って過ごしていたのだろう。目に浮かぶようだった。それを言おうかどうしようか迷ったけれど、朝からそんな小言を聞かされたくないだろうと思って、波多野は見ないふりをした。そういうことがいちいちいけないのだろうことは分かっているつもりだった。ベッドの中のふくらみは身じろいでいて、返事をしているのだから覚醒しているのだろうと勝手に考える。 「今日、学校あるでしょ、僕先に出ちゃうからね」 「・・・んー・・・」 曖昧な返事が聞こえて、波多野はもう少しそれに突っ込んだほうがいいのか考えたけれど、やっぱり昨日みたいに拒否されたら嫌だなと思って、それ以上は何も言わないで扉を閉めた。そういう曖昧な態度が結果的によくないことは重々分かっているつもりだったけれど、波多野はやっぱり凪には強く出られない。波多野にその選択をさせているのは、保身のせいもあった。 陽毬は昔から神童と呼ばれるほど頭が良かったようだが、その息子である凪はいたって普通の男の子だった。ただすっと伸びた鼻筋とか、長い睫毛とか、左右対称のアーモンド形の瞳とか、真っ白で陶器みたいにすべやかな肌とか、そういう凪を形作っている表面的な部分で、凪は多分ひとよりもずっと繊細で美しくできていて、昔から綺麗な子だなと思っていたけれど、最近とみにそれが増している気がする、と波多野はひとり扉の前で考えた。友達と遊びに行った繁華街で、スカウトされたと世間話の続きみたいに簡単に言って、お金になんか困っていないくせにモデルのアルバイトをはじめた時も同じように思ったけれど、最近の凪はもっと生々しく、息衝いているように見える。そういう言葉では言い表せないような微妙な変化について、きっと陽毬は気づかないでいるのだろうなと思ったけれど、波多野はその時ばかりはその陽毬の鈍感さが少し羨ましいような気がした。

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