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第4話

その日、珍しく真中は朝から事務所にいて、外に出かけるのも夕方からだと言っていた。真中が事務所にいると、一緒にお昼を取るのは波多野にとっては珍しいことではなかった。他の所員も多分、真中と喋りたいことがあるだろうけれど、波多野を押しのけてまでお昼の予定を取り付ける猛者は、今のところ現れていない。波多野が自分と真中の関係を言って回らなくても、狭い事務所の中で噂話は一瞬で駆け抜ける。別に聞かれて悪い話ではないし、後ろめたいことがあるわけではないけれど、皆がそうして自分に遠慮しているのだとしたら、それはなんだか申し訳ないとか、波多野だって思うことがある。 「はー・・・また面倒くさいこと言ってんな」 「まぁ、志麻ちゃんは意思の固い子だからねぇ」 事務所から歩いて数分の喫茶店で、波多野は食後のコーヒーを飲みながら、俯いて少し笑った。真中ならきっとそう言うに違いないと思ったことを、寸分狂わぬ形で真中が言い出したことが、少し面白かったのかもしれない。波多野には藤本がそこまで意固地になって、自分の班にしがみつく意味は分からなかったけれど、どんな方法でも好意を向けられるのは悪くはないと思っていた。それが尊敬なら尚更、少しだけ嬉しいと思ったことが、真中にはきっと分かってしまっているのだろうけれど。 「どうする?」 「どうって・・・あー・・・面倒くせぇな、ちょっと考えるわ」 「そうだね、僕としては志麻ちゃんの気持ちも尊重してあげたいと思うんだけど」 「でもお前のところでプロジェクトリーダーとか、そんなのやらしたら、お前の仕事がまた増えるだろうが」 「はは、まぁ、それはそうだけど」 言いながらコーヒーを置いて真中は唇を尖らせて、まるで子どもみたいに拗ねている。それでなくても新人教育は毎年厄介であり、それを一任されている波多野の仕事量は多い。柴田が眉間に皺を寄せて、野菜ジュースばかり飲んでいるような、そういうあからさまなやつれ方を波多野はしなかったが、真中だけはそのことを十二分によく分かっているつもりだった。 「そういやさ、昨日凪が来たよ」 「あ、そう?アイツ元気?」 「うん、でもひまちゃんのことクソババアとか言っててさ、なんか反抗期なのかな」 「・・・ふーん、凪幾つになったんだっけ?」 昔ならこういう時に真中は煙草を吸っていたような気がするが、ある日禁煙すると言いだしてからぴたりと吸っているところを見なくなった。禁煙が成功しているのかどうか、波多野は知らなかったけれど、見える部分では真中は煙草を吸ってはいないようだった。 「16だよ、早いよねぇ」 「あー・・・もうそんなになるのか、そりゃ陽毬もクソババアになるわな」 言いながら真中は可笑しそうに笑った。笑い事ではないのにと思いながら、真中相手にいくら眉を顰めてみても、無駄なことを波多野は知っている。 「なんか年々扱いづらくなってきてると言うか、昔はもっと素直でかわいかったのになぁ」 「まぁ、ガキなんてそんなもんじゃねぇの?」 「そうかなぁ」 「そうだって、それに陽毬に育てられてんのに、凪がそこそこちゃんと育ってることに寧ろお前らは感謝したほうがいいと思うぞ」 真中はそう言って、人差し指で目の前に座る波多野のことを指さした。大学の同期だったのは真中も同じで、陽毬のこともよく知っていた。ロボットと悪気なくあだ名をつけたのも、もしかしたら真中だったかもしれない。まぁ陽毬は養育しているというか、放置しているというか、そのどちらでも多分、陽毬にとっては同じ意味なのだろうけれど、それでも彼女は彼女なりに母親をやっているつもりなのだ、それでも。そういう養育環境にある凪のことを不憫に思えばいいのか、それとも陽毬のことをもっと責めるべきなのか、どちらも選択できないので、波多野は自分が凪にとって一時的な避難所みたいになることを、多分厭わないでいる。そういうことも全部、真中は分かっているのだろうなと思うけれど、それを直接言われたことはなかった、まだ。 「ひまちゃんは頑張ってるよ、多分」 「陽毬がちゃんとできてるんなら、凪はお前のとこになんか逃げてこねぇだろうが」 「そうかなぁ、それはそれで寂しい・・・」 波多野は言いながら、真中の指がテーブルの上の伝票を掴むのを見ていた。時間は見ていないから分からなかったけれど、そろそろお昼休みが終わる時間なのだろう。真中が立ち上がるのに合わせて、波多野も立ち上がってその背の高い背中を追いかけた。 真中が事務所を創立するというのに、波多野はついてきた形になるので、創立メンバーと言われてはいるけれど、ほとんどは真中の手腕でこの事務所は回っている。それが今の上司と部下の関係なのだと波多野はちゃんと分かっているつもりだったけれど、例えばこういう時、お昼を一緒に食べてその会計をする時に、当然みたいに割り勘するのを、なんだか学生時代に戻ったみたいで、少しだけ微笑ましくなるし嬉しくなる。真中にはそんなことはひとつも言ったことはないけれど。 「なぁ、ユヅ」 「なに?」 喫茶店を出たところで、先を歩く真中が不意に振り返って波多野を見やった。 「凪ってしばらくお前のところにいんの?」 「あぁ、うん。とりあえずひまちゃんの仕事が落ち着くまではウチで預かるつもりだけど、どうしたの?」 「いや、俺も久々に会いてぇなと思って、今日大丈夫?家行っていい?」 「あ、うん。別に僕は構わないけど・・・―――」 言いながら、凪は急に真中が来ると嫌がるかなと少し考えた。昨日も昨日で、あんまり機嫌がよろしくないようだったことも気になったままだ。それに凪はあまり真中のことが好きではないみたいで、陽毬とも一緒に四人で会うことも多かったけれど、そのたびに「どうして弓弦さんはいつも八尋を連れてくるんだ」と凪に抗議されたことすらある。それは流石に真中が可哀想だからと思って、本人には言っていないが。まぁ真中も自分のことをあんまり他人がどう思っているかということに対して、無関心というか頓着のない人であったので、凪のそんな抗議もはいはいと流してしまうのだろうなと分かってはいたけれど。 「構わないけど?」 「あ、いや、構わないよ。来るの?大丈夫?」 「あぁうん、お前ちょっと事務所で待っててくれる?そんなに遅くならないようにするし」 言いながら真中は腕時計を見やった。別にそこにスケジュールが書いてあるわけではないけれど、何となく頭で今日の仕事の時間を逆算しているのだろうなと思った。 「分かった、あんまり遅くならないようにね、凪もお腹減ると思うし」 「腹くらいすかしとけよー、お前ほんっと過保護だな、だからなめられるんだよ」 「えー、そうかな?僕なめられてるのかな?」 「そうだろ、お前もそのうちクソジジイって言われるぞ」 「うわー、それはショックだ・・・」 想像したら、こんなのただの妄想だと分かっているのに、本当にショックで青ざめる波多野のことを、真中は快活に笑い飛ばした。

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