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第5話
真中の帰宅を事務所で残業をしながら待って、真中と合流したところで波多野は事務所を後にした。結局ふたりして別の車に乗って帰るので、真中を待っている意味はあるのかと波多野は思うことがあったが、まるでそうすることが決まりみたいに、今日みたいに凪がいてもいなくても、真中は波多野の家に行く時は、いつも必ず事務所で待っていてと言うのだ。それを律儀に待っている自分もどうかとは思うけれど、もう習慣なのであまり気にはなっていない。真中は波多野の言ったことをちゃんと守ってくれて、事務所を出た時に確認したが、家に着くのは8時ごろになりそうだった。それくらいなら、食べ盛りの凪を待たせるにしても、許容範囲だろうと勝手に思う。尤も、凪はテーブルで待っていて、食事が出てくるような環境では育っていないので、食べ物くらい自分でどうにかできるくらいの能力はすでに身についているようだったが。
8時過ぎに、波多野は真中とともに自宅のマンションまで辿り着いていた。真中が家に来るのは珍しいことではなく、その逆も勿論あったけれど、真中が波多野の家に来るほうが何故か圧倒的に多かった。波多野が玄関の扉に手をかけると、やはりそれは昨日と同じように鍵がかかっていなかった。どちらにしても内鍵を閉めるように言わなければと考えながら、革靴を脱ぐ。ふっと見やると、玄関の端っこに、凪のスニーカーがきちんと並んで置いてあった。それは昨日自分がそこにそうして並べたのとほとんど同じように見えた。
「・・・あれ?」
「どうした?ユヅ」
「・・・いや」
考えているのが口から漏れたと思いながら、波多野は真中のために客人用のスリッパを出して、自分はいつものそれを履くと廊下を進んでリビングに続く扉を開けた。
「あ、おかえりー」
凪はそこに冬だと言うのにTシャツ姿で、ソファーに座って昨日と同じゲームをしていたようだった。髪の毛がぼさぼさで、下はパジャマ代わりのスエットのままだった。部屋の中が随分暖かいのも、凪によって設定温度が上げられているせいだろう。凪が立ち上がろうとするのに合わせて、凪の腹の上に乗っていたソワレがフローリングにぴょんと降り立つ。波多野は少し嫌な予感がすると思いながら、テーブルの上に鞄を降ろして、コートを脱いだ。
「凪、今日、ちゃんと学校行った?」
「・・・あぁうん」
ふっと波多野から視線を反らして、凪は曖昧にそれに答えた。そしてテレビの前にすとんと腰を下ろすと、さっきまでやっていたゲームの続きを何も言わずにはじめだした。波多野はよく知らなかったけれど、もしかしたら陽毬が家にいないことをいいことに、凪はあまり学校に行っていないのではないだろうかと、そこでふと不安になった。何となく凪のそれは、今日はじめてのことではなく、もう何度かしたことがある、慣れているような態度であるような気がしたのだ。
「オイ、凪、久しぶりだな!」
波多野がそこで勝手な推測に頭を痛めていると、ずかずかと真中がリビングに入ってきて、あぁそうだ今日は真中を連れて来たんだったと波多野はそこで思い出していた。
「げ、なんで八尋がいるんだよ!」
案の定、凪はあからさまに嫌そうな表情を浮かべている。凪は真中のことを名前で呼ぶが、それは陽毬や自分がそう呼んでいることをただ単に真似しているだけなのだろうと波多野は思っている。陽毬のことも呼び捨てだが、まぁ陽毬は母親だから百歩譲るとしても、真中は目上の他人なのだから、敬語とまではいかなくても、せめて「さん」付けしてくれればいいのにと思いながら、波多野は今日の今日までそれを言えないでいる。真中は買ってきたお寿司をテーブルの上に置くと、そのまま凪の側に寄っていくと、座ったままの凪の頭をぐしぐしとやや乱暴に撫でた。あんなに嫌そうな顔をされているのに、全くお構いなしなところは少し見習いたいと思いながら、波多野はそれを少し離れたところからただ眺めている。凪に構われなくなったソワレはいつの間にか波多野の足元に来ていて、波多野はぼんやりしながらソワレを抱き上げた。
「そりゃ、久しぶりに凪に会いたかったからだろーがー」
「オイ、やめろ!うぜー!お前いつもスキンシップ過多なんだよ!」
真中の手から逃れて、凪はやっていたゲームはもうよかったのか、コントローラーを放り投げて、波多野に助けを求めるみたいに近寄ってきた。
「おーおー、クソ生意気になっちまって、あのかわいい凪ちゃんはどこいったんでちゅかねー?」
「うるせー気色悪ィ!」
少し離れたところに立っている波多野の影に隠れるようにして、凪は真中に向かって喧々と吠えている。昔はもっと凪も真中に懐いていたような気がするけれど、最近はこの反応が多くて、波多野もそれに板挟みにされて困っている。真中のスキンシップが多いのは多分昔からで、本人に確かめたことはないが癖なのだろうと思う。女の子でも男でも関係なく割と誰にでもだし、波多野はそれにもう慣れてしまっているけれど、凪の反応を見ているとやっぱり少しおかしいのかなと思うこともある。
「なぁ弓弦さん!なんで八尋連れて来たんだよ!」
「八尋が来たいって言うから・・・嫌だった?」
「嫌に決まってるだろ・・・!こんなデリカシーのないやつ!それにせっかく二人なのに・・・」
「え?」
後半、独り言を漏らすように言う凪に、波多野は聞き返したけれど、凪は首を振ってくるりと後ろを向いてしまった。何となく凪が真中のことを毛嫌いしているのは分かったけれど、そんなにするほど嫌だったのかなと、少しだけ波多野は真中が不憫に思えたけれど、当の本人はまるでそんなこと気にしていないみたいだから、波多野だけがそれに心を砕いているみたいで嫌だった。
「デリカシーはなくても金はある!寿司買ってきたから食べるぞー!」
「あ、そうだ、忘れてた。凪お腹減ったでしょう、ごめんね」
「・・・別に飯なんてなんでもいいし」
言いながらふっと視線を反らす凪のことが、波多野にはよく分からない。何も言われなくても凪がぱたぱたとリビングを出て、洗面所に手を洗いに行くのを見ながら、そういえばどうも学校に行っていないことを、ちゃんと聞くのを忘れてしまっていたことを思い出していた。真中はそんなふたりのことはあんまり気にしていない風で、適度に凪に構い終わったらもうそれはそれで満足したのか、今度はテーブルの上ある、買ってきた寿司の包装のビニールを剥がすことに躍起になっている。
「ねぇ、八尋」
「ん?なに?つーか三人で飯食うの久々だよな、お前はちゃんと陽毬に会ってんの?」
「・・・あー・・・うん、まぁ、最近向こうが忙しいみたいでさ、三か月くらい前だけど、一緒にご飯食べたの」
言いたいことは何だったか、真中のそれにかき消されて、波多野は思わずそれを飲み込んでしまっていた。波多野と陽毬は結婚していたが、別々に暮らしている。別居していると言うと聞こえは悪いが、お互いの利便性を追求するとこうなっただけの話で、その利便性を追求したのは紛れもなく陽毬の独断だった。だから別に陽毬と仲が悪いわけではないし、お互い忙しさに構かけて疎遠にならないように、波多野は一応意識的に間隔をそんなには開けずに陽毬と会う時間を作っているつもりだった。その三か月前、ホテルのラウンジで食事をしたときは凪もいて、多分陽毬に問答無用で連れて来られたのだろうが、そういえばその時も終始不貞腐れたような顔をしていた。まぁこれくらいの年齢ならば、両親の食事会に付き合うよりも、友達と遊んでいたほうが楽しいのだろうなぁと、ほとんど何も喋ろうとしない凪に向かって、一方的に話題を振っていたのを覚えている。
「まぁお前らが上手くやってんならいいけどさ」
その時の真中のそれは随分、投げやりに聞こえて波多野は少しだけ胸が詰まれる思いがした。
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