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ご馳走さまが聞こえない Ⅱ

「そしたらその時八尋がさ・・・ーーー」 「相変わらず変なことばっかり考えるのね」 陽毬の声色はいつもと少し違ったような気がしたが、もしかしたら元々そうだったのかもしれない。家の中では陽毬と話をすることもほとんどないから、陽毬は自分の母親だったけれど、声を聞いたのは久しぶりだったような気がした。波多野と一緒に働いている真中は、波多野の同級生であり、陽毬の同級生でもあったから、自然と真中の話が出てくることが多かった。凪は二人の話をぼんやり聞きながら、白くて大きなお皿の真ん中に少しだけ乗っている得たいの知れない葉っぱを口に押し込んでいた。「家族との食事」はいつもこんな風で、別段凪はそれを楽しいと思ったことはなかったけれど、波多野に合法的に出会えるチャンスだったから、今回ばかりはそれを一度は考えたけれど、今まで一度もキャンセルしたことはない。 「凪はどうなの、最近」 葉っぱを押し込む作業が終わった凪が、ひどく手持ち無沙汰に見えたのか、波多野がそう声をかけてきて、凪はぼんやりしていた目を急にしばたかせることになった。 「え、どうって・・・」 「学校とか、他のことでも」 「・・・まぁ、普通」 他にもっと気の利いたことが言えれば良かったけれど、凪はその時何て言えばいいのか分からなくて、そう呟くことしかできなかった。そう、と呟いて少しだけ寂しそうな顔をする波多野が、目の端にちらっと映って、凪はまた少し焦ったけれど、もうどうしようもなかった。 いい息子になりたかった。波多野にとってそれが一番いいことは分かっていたから、できるなら自分は他の誰にも自慢できる、いい息子でいたかった。どうしたらいい息子になれるのか、凪には到底分からなかったし、この育っていく一方の気持ちを手折ってなかったことにすることも、できそうにもなかった。凪にはもうそれがこれ以上育たないようにするために、肥料や水を与えないようにすることくらいしかできなかったけれど、波多野に会って顔を見るだけで、体の中の血液が沸騰するみたいに気持ちが蘇ってくるのだから、それも無理そうだった。 (好きな人を諦めるって、どうしたらいいんだろう) 世の中には失恋ソングが溢れているけれど、諦める方法はそこには載っていない。いつの間にか皆次の新しい恋をしているのだ、それはもう頭で考えるより遥かに自然な成り行きで。自分にもそんなことが可能なのだろうか、いつか波多野ではない誰かのことを好きになったりできるのだろうか。 いつの間にか葉っぱの皿は片付けられて、メインの分厚い肉が出てきた。普段食事らしいものは食べずに、完全食ばかり食べている陽毬が、隣で嘘みたいな声で「美味しそうね」と呟くのが聞こえた。凪はほとんど絶望的な気持ちで、それにナイフを入れた。この「家族の食事」が終わったら波多野と会うことはしばらくないだろう、それにほっとしている自分もいれば、恐ろしく寂しい気持ちもあった。 食事が終わったところで、見計らったように陽毬に電話がかかってきて、彼女はそれに応じるために鞄をもって早足でレストランを出ていってしまって、凪はどうすることもできずに、ひどく気まずい気持ちのまま、食後の紅茶が湯気をはいているのを懸命に見ている振りをした。 「凪」 波多野が名前を呼んで、凪は返事をする代わりにちょっとだけ視線を上げて、正面に座っている波多野のことを見た。 「今日、凪が来てくれて嬉しかったよ。しばらく会ってなかったから元気かなって心配してたんだ」 「・・・来るよ、『家族の食事』だから」 「そっか」 言いながら波多野は眉尻を下げて笑って、凪はその顔が好きだなぁと呼吸をするみたいにまた思ってしまっていた。 「またウチにもおいで、ソワレも凪のことを待ってるから」 「・・・うん」 他に何て言えば、波多野を喜ばせることができるのだろう。いい息子だったらこういう時一体なんて言うのだろう。何て言うのが正解なのだろう。 (ゆづるさんは変わらないな全然、俺ばっか意識して馬鹿みたいだ・・・) いい息子でいたいのに、波多野を諦めることもできなくて、波多野にその気がなさそうであればあるほど苦しい。独り善がりにしか考えることのできない自分は、こんなはずではなかったと思いながら、もうお互いに知らない頃には戻れないことも分かっている。 「ごめんなさい、ユヅくん」 「あ、ひまりちゃん、どうだった?」 いつの間にか陽毬が戻ってきて、波多野の視線から逃れることができた凪は、少しの寂しさとほっとした気持ちを両方引き連れて、視線をまた紅茶に戻していた。 「どうしても研究室に戻らなくちゃいけなくなって、ごめんなさい」 「あ、いいよ。全然、もう全部終わったから」 「ユヅくんはゆっくりコーヒー飲んでから帰って」 陽毬は忙しなく、鞄を肩にかけて、白のショールを手に持つと、ちらりとまだ椅子に座っている凪の方を見やった。それはあからさまに先程波多野に注がれていたものとは違って、温度のない視線だったが、凪にとっては彼女はいつもそうだったから、特に今更それに何か感じることもなかった。 「凪、タクシー呼んでひとりで帰って」 「・・・分かったよ」 もしかしたら陽毬とふたりだったら無視したり、悪態をついたかもしれないけれど、波多野の手前、無視することも悪態をつくこともしたくなかったので、凪は仕方なく素直にそう返事することだけはした。陽毬はくるりと波多野に向き合って、もう一度頭を下げた。 「ごめんね、ユヅくん。ばたばたしちゃって」 「いいよ、またね。ひまりちゃん」 そうして陽毬が足早にレストランから去っていくのを、横目で見ながら急なことならしばらくは帰ってこないだろうことはなんとなく分かっていたから、最近真面目に学校に行っているけれど、明日から二三日サボろうかなと凪は考えていた。この間、担任にこれ以上欠席したら進学できないと釘を刺されたことはもう忘れていた。 「陽毬ちゃん忙しいんだねぇ」 「いないほうがいいんだよ、その方が気が楽」 そう言いながら凪は紅茶を飲んで、家に陽毬がいたところで気を使うことなんて何一つないけど、という言葉を流し込んだ。 「あ、そうだ。じゃあ、凪、これから僕の家においでよ」 「・・・え?」 「そうしよう、それがいい。ひまちゃんが帰ってくるまで、凪も一人でいたら寂しいだろう」 「いや、いいよ。迷惑だから・・・」 「なーぎ」 波多野はそれだけで自分にこれ以上何も言わせなくできることが、分かっているのだろうと凪は思った。そうじゃなければそんなに自信満々にはできないだろう。 「学校もあるから・・・」 「じゃあ僕の車で一回家に帰っているもの取ってこよう、それがいい」 「ちょっと待ってよ、ゆづるさん・・・」 学校なんて行くつもりはなかったけれど、それしか言い訳が浮かばなかったから仕方なかった。それが波多野にはばれていたのか、波多野は今考えたにしてはひどく流暢にぺらぺらと喋って今にも椅子から立ち上がってしまいそうだった。 「お、俺まだそういう感じゃない、の」 「そういう感じって?」 「ぜ、んぜん、整理できてない。ゆづるさんのこと、好きなままだし・・・」 言いながら俯いて、我ながらひどい言い訳だと思ったけれど、最早これしか思い付かなかったし、そういう意味では言い訳でもなかったかもしれない。 「それでもいいよ」 うつむいた凪のつむじに、波多野の優しい声が当たって砕ける。本当は凪だって分かっていた。波多野が自分に今更いい息子になって欲しいことを望んでなんていないことを、本当は凪だって分かっていた。波多野は自分には何にも望んでいない、凪のそのままをそのまま愛してくれている、それはもう、まるで家族にするみたいに。 (ゆづるさんにとって俺はずっといつまでも家族なの、どうやったらそれ以上になれるの、どうしてそんな優しいこと言うの、俺のこと気持ち悪くないの) 聞きたいことはたくさんあった。言いたいこともたくさんあった。でも凪はこれ以上波多野と一緒にいたら、きっとまた言わなくていいことを、本当は言いたくないことを言ってしまいそうになるし、また波多野のことをそうやって困らせてしまうことは何となく分かっていた。止められなかった、言葉も、気持ちも。だから多分、必要以上に一緒にいるべきじゃなかった。 (ゆづるさん、俺、絶対に諦められないよ、それでもいいよって言ってくれるの?) 目を見たら涙が出てきそうで、泣いたら頭を撫でて慰めてくれそうだったから、凪はその時必死にそれを我慢していた。 (それでもいいよって、言って) 俯く凪の頭を大きい手のひらがくしゃくしゃと撫でて、凪は顔を上げることができない。きっとまた好きになるに決まっていたから。 Fin.

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