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ご馳走さまが聞こえない Ⅰ

「来週の土曜日、あけてるでしょうね」 その日、しばらくぶりに家にいる母親を見たと思ったら、彼女は学校から帰ってきたばかりの自分を見つけると、開口一番そう言ってきたので、凪は一瞬彼女が何を言おうとしているのか分からなかった。そうして凪が玄関で靴も脱がずに数秒じっとしていると、彼女はいつもの大きめの黒い鞄を肩にかけると、前に落ちてきた髪の毛を鬱陶しそうに耳にかけた。そして、廊下の向こうからすたすたと玄関に向かってやってくるので、多分家に帰ってきたところだと思ったが、またすぐ出かける、正確には職場に戻るつもりなのだろうと、凪は慌てて汚れたスニーカーを脱いで彼女にそんなに広くはない玄関のスペースを譲らなければならなかった。 「もう出るの」 「なに?用事があるならメールしておいて」 「・・・別にねぇよ」 凪の精一杯の反論よりはやく、彼女が扉を閉めたので凪の言葉は扉に跳ね返って部屋の中に小さく響いただけだった。彼女、凪の母親である陽毬は、凪が物心ついたときから、いや多分それよりもずっと以前から仕事を一番愛していて、彼女と仕事の間に、例え一人息子の自分ですらも割り込むことはできないことはよく分かっているつもりだった。凪だって多分、もっと幼い頃は、返りのない母親に愛情を求めて右往左往したものだったが、求めても与えられることがないのだと分かれば、無駄に彼女の背中を追いかけるのは止めにした。その方が自分が傷つかないですむからだ、はじめから要らないものだと思っていれば、与えられなくても絶望することもない。 リビングに続く扉を開けると、その先は散らかってはいたが、まだマシな様相を留めていた。陽毬は家事を当然みたいにやらなかったし、凪も必要がなければやらなかった。この間まで、必要があればハウスキーパーを呼んでもいいということになっていたが、陽毬が契約を変えたのか、2、3日に1回は外から誰かが着て部屋の中を片付けているようだった。その人物のお陰で、部屋の中はまだ人が住める状態を保っている。凪は肩にかけていた鞄をその辺に放り投げると、制服のブレザーを脱いでそのままソファーに寝転がった。 (来週の土曜日か・・・) 何か用事をつけて会わない方法があるかと毎日考えているが、結局いい方法など思い付かない。来週の土曜日は陽毬が急に「家族で食事をする」と一方的に言ってきた約束の日だった。家族と言うことはきっと、波多野も来ることは明白だった。離れて暮らす波多野と家族という体裁を保つためなのかなんなのか、これまでも時々「家族で食事をする」というイベントは凪の意思とは無関係に催されることがあった。陽毬は凪とふたりで食事をすることを「家族で食事をする」とは言わないし、そもそもふたりで外食をすることなど多分一度もなかった。 (気まずい・・・) なんでもない振りはしたし、あれから何度か電話もしたけど、実際に波多野に会うのは久しぶりだった。どんな顔をして会えば良いのか分からない、会いたいような気もするし、会いたくないような気もする。いつものようになにも知らなかった頃みたいに振る舞えばいいことは分かっているけれど、なにも知らなかった頃、自分がどんな表情で波多野の前に立っていたかなんて凪にはもう思い出せないのだ。本当のことなんて知らなければよかったし、波多野に好きだなんて本当は言いたくなかった。言ったって波多野がそれに頷いてくれないのは分かっていたし、どうせ悲しい顔をさせてしまうのも分かっていたし、伝えてしまうのは全部、自分だけが楽になりたいからだって思っていたけど。 (伝えたって苦しいのは、同じじゃん) どうすれば正解だったのかなんて、分からなかった、いつも。 土曜日、結局陽毬と一緒にタクシーに乗って、凪は流れる東京の街を見ていた。勿論、陽毬は車なんて運転することができない。凪の隣に当然みたいに座っている、見たこともないワンピースを着ている母親はうっすらと化粧をしていて、実際、会うのは久しぶりだったが、知らない他人のような気がした。良い言い訳が思い当たらないまま、ずるずると時間に流されて、凪はそのイベントを避けることはできなかった。だけど、変に会わないでいると、それはそれでお互いに気まずさを助長させるだけになりそうなので、適当なところで何でもない振りをしておく必要はあったかもしれない。 しばらく走ったところでタクシーが不意に止まり、陽毬は温度のない声でタクシーの運転手と料金の支払いのための必要最小限のやりとりをはじめた。扉が開いたので、凪は先に降りるとふっとそびえ立つ有名ホテルを見上げた。家族のための食事は大抵がこういうところで行われていて、それはいわゆる普通の「家族の食事」とはかけ離れていることを、凪だけは知っている。ややあって陽毬がタクシーから降りてくると、凪のとなりを何も言わずに通りすぎると、そのまますたすたと迷いのない歩調でホテルのほうに歩き始めたので、凪もその背中を黙って追いかけるしかなかった。 ホテルのロビーには既に波多野が到着していて、陽毬と凪を見つけるとにっこり笑って立ち上がった。凪はそれを遠目から見つけて今すぐ足を止めてしまいたいような、早く近くに駆け寄りたいような、アンビバレントな感情が一気に押し寄せてきてどうしたら良いのか分からなかった。久々に見たような気がする波多野は、凪の頭の中の波多野と当たり前だがほとんど何も変わっていなくて、それに安心したら良いのか、がっかりするべきなのか、凪はそんな考えても分からないようなことを、それでも考える必要があった。 「ごめん、ユヅくん。ちょっと遅れた」 「大丈夫だよ、僕もさっき来たところ」 波多野の視線が陽毬から反れて、自分にぶつかって止まったとき、凪は一瞬息ができなくなる気がした。 「凪も、来てくれてありがとう」 「・・・うん」 来るに決まっていた、この間まで行かない言い訳を考えていたけれど、凪はそうして優しい目をする波多野を見たら、そんな考えが一瞬で消しとんだのが分かった。 (あぁ、やっぱり、俺、ゆづるさんが好きなんだなぁ・・・) その時の波多野は陽毬のことも他の誰のことも見ていなかった、自分だけを見て笑ってくれていたと思う。それだけのことがこんなに、自分にとって特別で、時間が全部止まって自分達以外が全員いなくなった世界に、ふたりきりになったみたいな高揚感を覚えることなんだって、凪は波多野と久しぶりに相対して、忘れていたようなそんな感覚を思い出していた。いい息子になると約束したけれど、こんなことでは到底いい息子には辿り着かないと思いながら、半身になって陽毬と何やら話している波多野の横顔を凪はぼんやり見ていた。

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