31 / 33
リトルバイリトル
ソワレはラグドールという種類の猫らしい。猫に種類があるなんてことを、ソワレは知らないし多分知らなくても構わない。ソワレは真っ白でふわふわで、耳の先っぽと鼻の頭は薄い灰色をしている上品な色合いの猫である。ソワレはちなみにソワレ以外の猫をテレビでしか見たことがないけれど、ソワレ以上に上品な猫には会ったことがない。ソワレはペットショップで売られているところを、ここの主人である弓弦さんに4年前に買われてこの家にやってきた。この家での暮らしは悠々自適で、少し退屈なところが気に入っている。主人の弓弦さんが仕事に行くとなかなか帰ってこないことを除けば、ソワレはおおむねここでの暮らしには満足している。弓弦さんはこの広い家で、滅多に鳴かない猫のソワレとふたりで暮らしている。ただ時々、チャイムも鳴らさずにこの家に帰ってくる男がいるのを、ソワレは知っている。
「おー、ソワレ。お前また太ったんじゃないか」
凪は弓弦さんの息子らしい。息子というのは家族らしいが、何故か凪は弓弦さんと一緒には生活していない。ソワレは猫だが教養のある猫なので、家族が普通は一緒に住んでいるということくらいは知っている。こんな風に突然、時々家にやってきて、弓弦さんが帰ってきたのだと勘違いして出迎えたソワレを抱き上げてくれる。凪はソワレにとってみれば兄さんみたいなものだ。人間の歳はよく分からないが、多分凪はソワレよりもずっと弓弦さんと長い間一緒にいる。だからソワレはそれを尊重して、例えソワレのほうがずっと弓弦さんと過ごす時間が長かったって、この兄さんを差し置いてこの家で大きい顔をしないのだ。ソワレは分をわきまえた猫なのである。
凪は弓弦さんの家に時々やってきて、家ではほとんどゲームをしている。リビングにいる時もあるし、凪の部屋にいる時もあるけれど、どちらにいてもほとんどゲームをやっている。ゲームがそんなに面白いのか、ソワレにはよく分からないが、凪がゲームをしている間、座っている足の間に潜り込んで、ソワレは凪と一緒にいることが多い。凪の匂いは弓弦さんのそれとはまた違うけれど、ソワレにとっては安心する匂いの一つだった。凪は大体コントローラーを握っていることが多いけれど、ゲームに飽きてテレビを見始めるとソワレを少し撫でてくれたりする。凪の撫でかたは少し荒っぽいけれど、ソワレはそれに文句を言ったことはない。
ソワレがこの家に来てから4年間、色んなことがあったけれど、ずっと弓弦さんと凪は仲良しだった。家族には色々あるらしいが、多分テレビの中で見るどの家族よりも、弓弦さんと凪はいい家族だった。テレビの中には母親という名前の家族も時々登場していて、この家の中にはその名前の家族はいなかったけれど、そんなことは気にならないくらい、ふたりはふたりで十分だった。
「なんで上手くいかないんだろ、あんなこと言うべきじゃなかった」
扉が閉まる音がして、ソワレは眠っていたけれどはっと目を覚ました。丁度その閉まったばかりの扉の前に、凪が春にはまだ涼しすぎる格好をしてぺたんと座り込んでいた。ソワレはどうやら凪のベッドで眠ってしまっていたらしい。待っていたら凪がこっちに来るかなと思って、ソワレは暫くそこを動かないでいたけれど、凪はそこで蹲ったまま全く動く気配がなかった。こんなに静かな凪は初めて見る。ソワレはそっと起き上がってベッドを下りて、凪に近づいて行った。凪はソワレが近づいても全く気付く素振りがなく、じっと俯いたままだった。鳴くのははしたないと思って、ソワレは前足で凪の足をぽんぽんと叩いた。ふっと凪の頭が動いて、その茶色い目がソワレのことを見た。その時の凪の目には、見たことがないくらい涙がたまっていて、ソワレはそれを見て少しだけ吃驚した。凪が泣いているのを初めて見たからだ。
「なんだよ、ソワレ。慰めてくれてんのか」
凪は足元に座っているソワレを見て、口元を少しだけ綻ばせてそう言った。崩れた足を上ると、凪はいつものようにソワレを抱き上げた。ははは、と凪が側で笑ったけれど、その後ぽろりと涙が落ちてきて、ソワレの顔に当たった。凪はどうして泣いているのだろう、何か悲しいことがあったのだろうか。
「困らせたいわけじゃないのに、ごめんね、弓弦さん」
力なくぽつりと凪はそう呟いて、瞬きをするたびに凪の目からぽろぽろ透明な涙が落ちてきて、ソワレの顔に降りかかった。ソワレはどうやったらいいのか分からなかったけれど、凪が辛そうなのでその頬を少しだけ舐めた。涙は少しだけ塩辛い味がした。凪は弓弦さんと喧嘩でもしたのだろうか。昨日もふたりで楽しそうにご飯を食べていたばかりなのに。凪は俯いたまま何も言わなくなり、時折しゃくりあげては、頬の涙を拭っていた。弓弦さんとどんなことで喧嘩をしたのか知らないけれど、きっと凪は大丈夫だよ、弓弦さんは凪にいっとう甘いし、きっとすぐ許してくれるに決まっている、だからそんなに泣く必要はないのだと、ソワレは凪に言いたかったけれど、そうやって凪を凪が言うみたいに慰めてやりたかったけれど、ソワレは人間の言葉を話すことができないので、凪の首筋に顔をこすりつけて、ごろごろと喉を鳴らすことしかできなかった。
凪の部屋を出て、ソワレはリビングに戻ってきた。リビングのソファーには弓弦さんがひとりで座っていて、いつも大抵弓弦さんはひとりだったけれど、今日ばかりはその背中が少しだけ寂しそうに見えた。ソワレはソファーに飛び乗って、弓弦さんに近づいた。すると弓弦さんはたった今気づいたみたいな所作で、ソファーに座るソワレのことを見やった。弓弦さんは仕事が忙しくて疲れていることが多かったけれど、今日は一層その目元が疲れているような気がした。ソワレはゆっくり近づいて行って、弓弦さんの膝の上に乗った。弓弦さんは疲れた目元のまま、ソワレの頭を優しく撫でてくれた。
「凪のところに行ってたの?ソワレ」
弓弦さんは静かにそう言って、ソワレは何を言われているのか、その時ばかりは分からなかった。二人は一体どんな喧嘩をしたのだろう。こんな弓弦さんは見たことがない。それから弓弦さんは黙ったまま、静かにソワレの頭を撫でていた。弓弦さん、大丈夫だよ、凪は弓弦さんに時々悪いことを言うけれど、言った後はいつも部屋の中で蹲って反省をしているのを、ソワレは知っている。ソワレだけがそれを知っている。だから大丈夫。弓弦さんが思っているよりも凪は怒っていないし、沢山反省をしている。だからきっとすぐ元の二人に戻れるよ。言いたかったけれど、やはりソワレは人間の言葉を話すことができないので、弓弦さんに寄り添ってごろごろと喉を鳴らした。弓弦さんは疲れた目でソワレを見て、それから少しだけ笑った。
「うまくいかないよなぁ」
それから弓弦さんはソファーから立ち上がって、ソワレは自動的に床にぴょんと降り立った。キッチンに向かう弓弦さんの後について行くと、弓弦さんは冷蔵庫からビールを取り出して、立ったままそれを開けて飲みはじめた。弓弦さんは家ではあまりお酒を飲まない人で、それは時々来る弓弦さんの友達のためのものだった。弓弦さんきっとすごく困っているんだろうなとソワレは思ったけれど、ソワレはそれ以上進めなくて、なんだかその背中にしがみついてはいけないような気がして、ただ床を真っ白の尻尾で叩くことしかできなかった。
「ソワレ」
ふと振り返って弓弦さんはソワレのことを呼んだ。ソワレがそこにいることを、弓弦さんは覚えていたのだとソワレはその時思った。それくらい弓弦さんはたったひとりになってしまったみたいに、そこで冷蔵庫を相手にビールを飲んでいたからだ。
「僕のことはいいから、凪のとこに行ってあげて」
弓弦さんは疲れた目元で笑って、そしてまたすぐにソワレに背中を向けてビールを煽った。あの缶の中身はいずれなくなる。その時ソワレが側に居なくても平気?ソワレはそう聞いてみたかったけれど、弓弦さんにそれを聞くことはできなかった。ソワレは上品で分をわきまえた猫だったけれど、人間の言葉を話すことができなかったからだ。ソワレは弓弦さんのことも心配だったけれど、弓弦さんがそう言うなら、それに従うしかない。この人はソワレのご主人様だからだ。ソワレは後ろ髪を引かれながら弓弦さんに背を向けて、凪の部屋に戻ろうとした。リビングを出る一瞬、ソワレが振り返って弓弦さんの姿を確認すると、弓弦さんはほとんど中身のないビールの缶を手に持って、冷蔵庫に凭れて何もない天井をぼんやり見ていた。
弓弦さん、大丈夫だよ。ソワレには分かる。だからそんな顔をしなくても大丈夫だ。きっと凪は弓弦さんを許すし、弓弦さんは凪を許すに決まっている。ソワレには分かるのだ。
だってそれが家族ってものだろう?
ともだちにシェアしよう!