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第30話

その日、波多野が家に戻ると、ひとつ荷物が届いていた。差出人は凪の名前が書いてある。その茶色の包装紙に包まれたそれを破って中身を確認すると、それは凪の載っている男性向けファッション雑誌だった。波多野は鞄を置いて、コートを脱ぐと、ソファーに座ってそれをぱらりと捲ってみた。まだ外は肌寒いけれど、雑誌の中では春が来ていて、モデルたちはどこか明るい表情で、少し春めいてきたらしい明るい色の洋服を身に着けてポーズをとっている。そこに載っているのはずっとずっと若いモデルで、波多野の年齢からすると理解できないようなファッションもあったけれど、それが凪の生きている10代の世界だった。その眩しさに少し目を細める。ページを進めていくと、スプリングコートを着た凪の姿が目に留まった。 (・・・凪) そこに映っている凪は、波多野の知っている凪より、いつも少しだけ大人っぽく見える。着ているものや髪形で、多分そういう風に見ている人の印象を変える能力というのが、きっとモデルのそれなのだろうと思いながら、波多野はそれを少しだけ寂しいような嬉しいような複雑な気持ちで眺めている。陽毬はこれを凪が自分で送っていると言っていた。波多野に見てほしいから、褒められたことが嬉しくて、そんな波多野でもいつの話だったかよく覚えていないことを、凪はいまだによく覚えているばかりか、それをどこか精神的な支えにして、今でも頑張っているなんて、この雑誌を開いてみる人の誰が、一体誰が分かるのだろう。 「・・・―――」 波多野は堪らなくなって雑誌を閉じた。このまま元に戻れるのだろうか。いつかそんなこともあったねなんて言って、笑うことができるのだろうか。凪にもいつか別に好きな人ができて、自分もそれを祝福できる日が来るのだろうか。波多野はソファーに座ったまま、じっと考えていた。そんな考えたって答えの出ないことを、それでも考えずにはいられなかった。 鞄の中から携帯電話を取り出して、凪の連絡先を探した。いつものように雑誌が届いたことを伝えておこうと思った。凪が元に戻れるつもりでいるのなら、自分もそれに向けて努力をしなければいけなかった。例えそんなことが不可能でも。凪に作ったメールはいつもより短く素っ気ないような気がした。気のせいかもしれないけれど、そういう些末なことが降り積もって、いつか自分の首を絞めてくることは分かっていた。もう少し考えようかとも思ったけれど、波多野はそれを勢いのまま送信しておいた。時間をかけては送信する勇気が出なくなるかもしれないと思ったからだ。ややあって携帯電話が激しく鳴り出して、ディスプレイを見ると凪から電話がかかってきているようだった。波多野はまだ少し混乱したまま、通話のボタンを押した。 「はい」 『あ、弓弦さん、お疲れ様、雑誌見てくれた?』 「あ、うん・・・―――」 凪の声は思ったよりもずっと明るくて、あの日ハリアーの中で手を震わせて泣いていた凪とは別人みたいで、波多野はそれをどう処理していいのか分からず、曖昧な返事だけが唇から洩れるのを止めることができなかった。凪は電話の向こうであははとまた快活に笑い声をあげた。 『ありがとー。来月はさ、俺、巻頭の特集任されてるんだ!来月楽しみにしてて、一杯載るから!』 「・・・うん。楽しみにしてる」 『うん、また来月も送るからさ』 明るい声で凪は続けた。そこまで聞いて何となく、波多野は凪が何かを取り繕おうとしていることに気づいたけれど、多分気づかないでいるほうが良かった。凪のためには何にも知らないふりをしてやるほうがずっと良かったかもしれない。だから多分、凪は今陽毬の家にいるのだ。陽毬はそう言うことに全く関心がないし、気づいていてもそれをどうにかしようとする気がそもそもないから、ただ黙っている。そこまで考えて、波多野はふと、真中が陽毬も気づいているはずと言っていたことを思い出した。波多野は陽毬が凪の気持ちに気づいているはずないと思ったけれど、気づいていたって陽毬はきっと変わらない。多分、ただ黙っているだけなのだろう。だとしたら真実はどこにあるのか、波多野には分からない。 『弓弦さん』 「あ、うん、なに?」 『あのさ、また、泊まりに行ってもいい?』 凪の声色は相変わらず明るかった。あの日、凪が荷物をまとめて出て行った日、もうこの子は二度と自分の家には戻ってこないかもしれないと思いながら、その背中を見送ったことを、波多野はまだ鮮明に覚えている。そういえば、その時も凪は笑顔だった。どうして笑顔だったのだろう、それは波多野に余計な心配をさせないためだったのだろうか。凪はいつも賢くて、絶対にこういう時に波多野を困らせたりはしないのだ。 『弓弦さん?やっぱ、ダメかな・・・』 「あ、うん、駄目じゃない、いつでもおいで」 今まで嘘みたいに明るかった声が一瞬弱弱しくなって、波多野は考えていたことを途中で放棄して、凪に向かって早口でそう言った。余計なことなんて考えるのは今じゃなくても良かった、ずっと後でもよかった。凪が波多野に心配をかけないようにと気を使っているみたいな要領で、波多野は波多野で凪がこれ以上傷つかないでいい方法を探しているつもりだったけれど、一番に凪を傷つけてしまう刃物を持っているのが自分だという自覚が、多分波多野には少し足りていなかった。 『あ、ほんとに?ありがとう、じゃあまた行く時連絡する』 「うん、待ってるよ」 ぱっと凪の声に華やかさが戻って、波多野は心底安心した。 『ありがとう、弓弦さん』 「・・・え?なに?」 『俺、あんなこと言っちゃったから、もう弓弦さん、俺に優しくしてくれないかもって思ったけど』 「・・・あのね、凪」 そうやって不安になって俯く凪の頭の形を、見てなくたって波多野にはよく分かった。その俯いた後頭部を撫でてやれないのが辛いと思った。凪は今陽毬の家にいるのだろうか、あの何にもない無色の部屋の中で、帰って来ない母親を待ちながら凪はどんな風に息衝いているのだろう。 『いいんだ、弓弦さん』 凪は波多野の言葉をわざと遮るみたいに、そうやって大きな声を出した。波多野はそれに黙るしかなかった。 『弓弦さんが俺とおんなじ気持ちで、俺に優しくしてくれたわけじゃないって、俺はちゃんと分かってるつもりだから。それに俺は、そうやって弓弦さんに言えただけで良かったっていうか満足っていうか・・・』 「・・・うん」 強がる凪にかけてやる言葉がなくて、波多野は少しだけ声のトーンを落として、それにそうやって返事をした。それ以上のことを言うと全部嘘になってしまいそうで怖かった。 『うん・・・えっと、じゃあまた、連絡する!』 凪の言葉は最後まで威勢がよく、そう言うと今度は波多野がそれに返事をする隙を与えないみたいな性急さで、電話は切られてしまった。波多野は手のひらの携帯電話が沈黙してもまだ、それが熱を持っているのを感じながら、暫くそれを眺めていた。真中はそのままでいいと言った。波多野のそのままで凪のことを今まで通り愛してやったらそれでいいのだと言っていたけれど、そのままでいることが難しいことだということを、波多野は多分気づき始めている。手のひらの中の携帯電話はまだ熱い。

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