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第29話

所長室の扉が叩かれて、真中はぱっと顔を上げた。 「はーい、どうぞ」 ここに用事のある人間なんて、ここには沢山いたから、真中はそれが誰なのか考えずにただ返事をした。ややあって扉が控え目に開かれる。てっきりリーダーの誰かだと思ったけれど、そこから顔を覗かせたのは、先ほど波多野との話の中で渦中の人物であった藤本だった。藤本はいつも疲れたような顔をしていて、機嫌が悪くて、特に所長である真中に対しては、辛辣なことが多かったけれど、今日に限って言えば、随分と大人しいというか、しおらしい様相だった。いつもと違う藤本の様子に面食らって、真中は一瞬彼女に何と声をかけて良いのか分からなかった。藤本は少し視線を下げたまま、入り口の近くにただ立っている。 「・・・どうした、志麻子、なんか用か」 「あの、・・・いえ」 藤本は一瞬何かを言いかけたが、すぐに言い淀んで、さらに視線を下げてしまった。真中はそれを見ながら、さっき波多野とした話を、きっと藤本も聞いていたのだろうと思った。藤本がこんな顔をする理由を、そうして自分は少し分かっている気がしている。 「志麻子、異動の件か?とりあえず来期はそのままにしといてやるよ」 「・・・ありがとうございます」 「でもこれ以上は無理だからな、来年は覚悟しとけよ」 「・・・はい、わがまま言ってすみませんでした」 一応彼女もそれが自分のわがままだということを理解しているのだなと、真中はそれを聞きながら思った。所員にどこの班がいいというようなことを言われることは、決して多くはないもの、少しはあったし、実際をそれで班を異動させたことも過去にはあった。けれど、藤本のように班から異動したくないと言われたのは、そういえば初めてだったような気もする。 「志麻子、お前、分かってると思うけど」 言いながら真中は、こんなことを彼女に突き付けて、一体どうするつもりなのだろうと、言葉にしながらまだ迷っていた。こんなことは言わないほうが双方のためになるのではないかと思いながら、それでも言葉が口を突いて出てしまうのはどうしてなのだろう。 「あいつの家はさ、なんかまぁ、色々、複雑なんだけど」 「でもあいつらどうにかなるってことは、今後多分ないからさ、それなりに外には分からないけど、うまくやってるんだよ、あれでも」 藤本のいつも強い光を宿した瞳は、その時は暗く沈んで見えた。こんな時にそんなことを言って、自分はこの女の子を一体どうしようと思っているのだろうかと真中は思ったけれど、多分この機会を逃しては、藤本相手にこんな話をすることもないだろうと、どこかで分かっていたのかもしれない。 「だから・・・―――」 「分かってます」 少しだけ視線を下げた藤本が、急にそう鋭く切り替えしてきて、真中は一瞬息を飲んだ。息を飲んで怯んで、暗く沈んだ眼をする藤本の前で、何も言えなくなってしまった。仕方なく口を閉じて、そこで分かり易く傷つく藤本のことを少しだけ離れたところから見ていた。見ていることしかもうできないと思った。藤本はそこで俯いたまま苦しそうに手で顔を覆った。 「分かってます、別に私そんなつもりじゃ」 「うん、そうだな、悪かったな・・・あー、違うんだよ」 「分かってます・・・」 言いながら藤本は一度だけ大きく深呼吸をすると、顔を覆っていた手をそっと退かせて、ぱっと顔を上げた。顔を上げたところで藤本はいつもの様相に戻っていた。真中は自分の言葉が藤本の決心を、もしかしたら不用意に突いてしまったような気がして、思わず弁解しようと思ったけれど、それも藤本に制止されてうまくいかなかった。何もかもうまくいかないものだと思いながら、真中は少しだけ眉尻を下げた。そんな強い目をして鎧って見せなくてもよかった、少なくとも自分の前で、そんな風に藤本が傷口を隠す必要なんてないことを、真中はどんな言葉で伝えたらいいのか分からなかった。 「分かってます、別に、どうにかなろうとか、そんなんじゃ、そんな気持ちで、波多野さんを好きなんじゃないですから、安心してください」 「あー・・・うん」 そうして藤本が精一杯取り繕って笑うのに、相応しい言葉は何だろうと真中は返事をしながら考えた。傍目から見ていても、藤本が波多野のことを、上司以上に思っているのは一目瞭然なのに、他の人間にどう映っているのか不明だったけれど、真中の目には一目瞭然だったのに、それを波多野が持ち前の自分の周辺のことだけに見せる鈍感さで、全く気付いていなかったことについては、今の段階では救いだったと思わざるを得なかった。それは波多野にとっても、おそらく。 「分かってるよ、志麻子がそんな馬鹿な女じゃないってくらい」 「・・・ありがとうございます」 藤本は少しだけまた視線を下げて、照れたように笑った。 「どうにもならないことだって、ちゃんと分かってるんです。それに私、波多野さんが家族の話をするの、好きなんです」 「波多野さん、家族の話をしている時が一番、いちばん、優しい顔をしてるから」 だったらどうして、その気持ちを埋葬することができないのだろうと、藤本の赤い目元を見ながら真中は思った。どうしてそんな風に、思っても報われない人のことを思ったり、側にいなくてもいいと言われているのに側に居たがったりするのだろう、そんなことをしたって傷口が塞がるばかりか、広がるばかりだと知っているはずなのに。真中はそこで強がって笑う藤本のことを見ながら、思わず目を細めていた。残りの一年で彼女はどうするのだろう、ゆっくりその気持ちを殺す時間に、その一年は長いのだろうか短いのだろうか。真中にはそんなことは分かりそうもなかった。やめておけ、諦めろと言うこともできなかった。 「ありがとうございます、真中さん」 「あー、うん。辛くなったら言えよ、あと仕事はちゃんとしろよ、仕事だからな」 「・・・あはは、分かってますよ」 そうやって彼女は笑ったけれど、真中にはそれが笑っている顔にはどうしても見えなかった。

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