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第28話

それから凪は宣言通り荷物をまとめて波多野の家を出て行った。出て行く凪の背中を見ながら、この子はもう二度と自分の家には戻ってこないかもしれないと波多野は思ったけれど、それは紛れもなく自分の選択だったから、後悔しても責めることができるのは自分ただひとりだった。凪が出て行った後も、陽毬からは特に連絡がなく、家にいるともいないとも言ってこないし、それ以上のこともなんのレスポンスもない。真中は陽毬も凪の気持ちに気づいていると言っていたけれど、それだけはどうかなと波多野はひとりでただ思っていた。それを陽毬に確認する勇気がなかったから、ただひとりでそうではない理由を並べ立てて安心したいだけだったのかもしれない。凪が出て行ったことで、波多野の周りは急に穏やかになって、いつもより少しだけ遠くの景色まで見えそうだと、事務所のデスクに座ってひとりでぼんやりと考えていた。 「ユヅ」 ふと呼ばれて顔を上げると、デスクの前に真中が立っていた。いつの間に帰って来たのだろうと、真中の姿を確認しながら、波多野はパソコンで作業をする時だけにつけている眼鏡を外した。お昼休みは真中がいなかったから、藤本と西利と一緒にランチに出かけたところだった。真中がいれば二人で昼食をとるのは決まりになっていたから、さっきまで確かに真中はいなかったはずだった。 「どうしたの、真中さん」 そういえば、自分は周りの所員の目もあるし、と気を付けて、敢えて真中にさん付けなんかしていて、上司と部下の関係を記号で示しているつもりなのに、そういう波多野の気づかいや努力をぶち壊すみたいなやり方で、真中のほうはずっと波多野のことを学生時代と同じように呼ぶ。 「志麻子のことなんだけど」 「・・・あぁ、志麻ちゃん」 最近までずっと凪のことで手一杯で、すっかり忘れていてしまったけれど、そういえば藤本に異動を取り消すように言われていたなと、波多野は思い出していた。そしてその時真中に言われるまで、自分が全くそれを思い出せないでいたことについては、自分のことだけに少しだけ驚いていた。今までこんなことはなかったし、プライベートで何があっても、仕事の何かを疎かにすることなんてなかったけれど、凪が絡むと残業も部下に押し付けて帰ったり、急に早退したりとここ最近散々だったなと、真中の顔を見ながら波多野はひとりで反省をした。やっと落ち着いてきたから、これからはもう少しちゃんと仕事に向き合わなければいけない、そうしてひとりでひっそりと誰に宣言するわけでもなく考える。 「志麻子、とりあえずは来年一年、お前の班で見てもらってもいい?」 「あぁ、うん。分かった」 「悪いな、プロジェクト任せたりする時は柴にもフォローさせるから、適当に使って」 「はは、そんなこと言ってると、また柴くんに怒られるよ」 どこまでが真中の本気で、どこからが冗談か分からなかったが、波多野は一応冗談にしておいたほうが、いいだろうと思ってそれに少しだけわざと大きな声を出して笑った。 「じゃなくて、柴にも話付けてあるから。お前ひとりで抱え込んで、何でも一人で処理しようとするなよ」 「・・・あ、あぁ、うん・・・」 それなのに真中が真剣な顔をしてそんなことを言うので、波多野はそれに何と言っていいのか分からなくなって、歯切れ悪くそう返事をするしかなかった。それが真中の優しさなのだと気づくのに、随分時間がかかってしまった。そうは言っても激務で目の下を真っ黒にしている柴田に、これ以上何かを頼むなんてことを波多野は多分選択できなかったけれど、真中のそれは波多野のそういう選択すら見越しているのだろうなと思ったら、それはそれで少し過保護にされすぎているような気がした。 「真中さん、大丈夫だよ、志麻ちゃんひとりくらい、なんとかなるよ」 「・・・そうかよ」 「ここ最近、結構勝手にさせてもらったしね」 「・・・あー・・・まぁお前がそういうんなら」 言いながら真中はすっと半身になって、それ以上は何も言わないで、多分言っても無駄だと思っているのだろうが、もう話は終わりと言いたげに、所長室に戻ろうとした。 「真中さん」 波多野が立ち上がって、真中の名前をそんな風に呼ぶと、こちらに背を向けかけていた真中の体が止まって、ふっと視線が戻ってくる。 「ごめんね、ありがとう」 「・・・ばーか。なに今更気ィ使ってんだよ、気持ち悪ィ」 「あはは、そう言わないでよ、親しき中にも礼儀ありって言うでしょ」 波多野が笑ってそう言うと、真中もそれに少しだけ口角を引き上げたのが見えた。本当は真中を前にすると、自分の悪いところが晒されるみたいで嫌だと、ほんの最近までずっと思っていたなんて、本当はこの出来のいい親友には知られたくなかったけれど、もしかしたら真中はそんなことはお見通しで、自分が隠した気になっているだけなのかもしれないなと、その時波多野は思った。そうして今度は振り返ることなく、すたすたと歩いて所長室に戻っていく真中のことを何となく目で追いかけている。 「波多野さん」 そう呼びかけられて、はっとして波多野は視線を戻した。波多野のデスクの前には真中とは入れ違いで、今度は藤本が立っていた。彼女はさっきまで近くのデスクに座っていて、いつもの藤本なら自分の話をされていると分かったら、それを聞きつけて寄ってきそうだったけれど、今日は真中が行ってしまうまで、まるで気配を消すみたいにじっとしていて、だから波多野はそこで藤本の顔を見るまで、そういえば藤本が側にいたことを忘れていたような気さえしていた。彼女は今日もいつもと同じような疲れたような顔をしていて、さらにそれを曇らせていたので、随分と顔色が悪く見えた。 「あ、良かったね、志麻ちゃん、とりあえず異動はなしだって」 「あ、はい・・・すいません」 藤本はらしくなく小さな声でそう謝ると、マスカラも何も縫っていない素直なままの睫毛を瞬かせて、それから何かを言い淀むようにして視線を下げた。 「え?どうしたの?なんで謝るの?」 「いえ、なんか色々、わがまま言って所長にも迷惑かけちゃって」 「大丈夫だよ、志麻ちゃんのことを真中さんもちゃんと分かってくれていると思う」 「・・・あぁ、はい・・・えと・・・波多野さんにも迷惑かけちゃって」 「え?僕?僕は何もしてないから大丈夫だよ、志麻ちゃんどうしたの?」 らしくないねと言って笑うと、藤本はそこで少しだけ顔を上げて曖昧な表情を浮かべた。 「私ちょっと、謝ってきます」 「・・・あー・・・うん」 その必要はないような気がしたけれど、波多野がそれに返事をする前に、藤本は今日も高いヒールの音を響かせて、さっき真中が通ったところを同じように追いかけて、所長室の方向に消えていった。

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