27 / 33

第27話

「ごめん、陽毬ちゃん、遅くなって!」 病室の扉を開けると、真っ白のベッドに横になっていた陽毬は、その青白い顔を、扉のほうに向けて、病室に走りこんできた波多野を見た。 「大丈夫、こういう時は男は何もできないんだって、本で読んだ」 「・・・またそんなこと言って。無事に生まれたんだね、良かった」 波多野はベッドの脇まで小走りでやってくると、側に置いてある丸椅子に腰かけると、にっこり笑って横になったままの陽毬のことを見下ろした。その額には汗がじんわり浮いていて、それだけでここまで走ってきたことが伺えた。不思議だとそれを見ながら陽毬は思っていた。こんなところに波多野とふたりでいることが、不思議で堪らなかった。こんなことになるとは思っていなかった、そこまで考えて陽毬は思わず首を振りそうになった。いや、少しは思っていたかもしれない。 「出産は重労働だった、もう二度としたくない」 「あはは、お疲れさま。頑張ったね、ひまちゃん」 言いながらまた波多野がにこりと笑って、陽毬はそれにどんな顔をすべきか少しだけ考えた。 「赤ちゃんは?」 「そこで寝てる、なんか変な顔なの」 「変な顔って」 波多野がふらっと丸椅子から立ち上がって、側に置かれたベビーベッドに近づいた。陽毬はそれを横目で追いかける。その背中が不思議だった。このひとは自分ともそこで眠る未知の生物とも全然関係がないのに、どうしてそんなに汗だくになって走ってきたり、にこにこ笑って自分のことを労わったりしてくれるのだろう、全然意味が分からないと思いながら、少しだけやって来た眠気に、睫毛を瞬かせる。 「かわいい!変な顔じゃないよ、すごいかわいいじゃないか」 「・・・それがかわいいの?よく分かんないんだけど、さるみたい」 「あはは、ねぇ、抱っこしてもいい?」 「・・・好きにしたらいいよ」 眠たくて陽毬は面倒臭さ半分、適当に返事をする。波多野がベビーベッドから白いおくるみに包まれた赤ん坊を抱きあげている。陽毬も生まれた後に、ほぼ強制的に看護婦に抱っこさせられたけれど、自分でも驚くくらい愛着が持てなくて、吃驚してすぐに離してしまった。それなのにその未知の生物と全然関係のない波多野は、それを抱き上げてひどく幸せそうに笑っている。それを見ていると血の繋がりなんて一体何の意味があるのか分からないと、陽毬は思ってしまう。自分なんかよりもよっぽど波多野のほうが親らしい。陽毬は黙ったまま、赤ん坊を抱っこする波多野のことを少し遠くから見やっていた。 「男の子だった?」 「検査の結果通り。最近の科学はすごいね」 「そうか、男の子でよかった、お嫁に行って泣くことがないもん」 言いながら波多野は赤ん坊を抱いたまま、丸椅子に戻ってきてそこに座った。さっきまでサイレンみたいにぎゃあぎゃあ泣いていたのが嘘みたいに、波多野に抱かれた赤ん坊は、すやすやと寝息を立ててとても大人しくしている。陽毬はそれを見ていた視線を少し上げて、波多野の横顔をそっと見やった。波多野はそこで目じりを下げただらしない顔をして、腕の中の赤ん坊を眺めていた。不思議だった。 「ねぇ、ひまちゃん。すごいねぇ、こんなに小さくて柔らかいのに、生きてるなんて不思議だねぇ」 「・・・ユヅくん」 「あ、ひまちゃん抱っこする?よく寝てるね」 「私はいい。なんか落っことしそうだから」 波多野が腕ごとこちらに渡そうとしてきたのを、慌てて拒否すると、波多野はそれに首を傾げて、また腕の中の生き物のほっぺたを突き始めた。 「ユヅくん、名前考えてよ」 「名前?あ、そうだ、決めてないの?」 「決めてない、ユヅくんが決めて、なんでもいいよ」 また少し眠くなってきた陽毬は、目を擦りながらやや投げやりみたいに言った。波多野は少し吃驚したみたいに目を瞬かせたけれど、それ以上は陽毬に反論しなくて、多分こういう時、こういう確定的なことを言う陽毬相手に何を言っても無駄なことを、それは波多野が理解していたからなのだろう。そうして波多野は何も言わずに、また視線を腕の中の赤ん坊に戻した。陽毬にとって名前は記号でしかなかったから、本当に言葉の意味通りなんでも良かったけれど、そこで腕の中の赤ん坊を見つめる波多野は、きっと自分なんかよりそれを真剣に考えてくれるのが分かっていた。だから丸投げするみたいにそう提案したのかもしれないし、それともそういう方法で、この運命の歯車に少しでも波多野を引っ張りこもうとしたのかもしれない。 「そうか、じゃあ凪は?」 「なぎ?」 「うん、ここに来るときにね、海の近くを通ったんだ。今日の海は静かな凪だったよ、この子の人生が凪みたいに穏やかでありますようにっていう意味で」 言いながら目線を伏せて、赤ん坊を眺める波多野を、陽毬は黙ったまま距離は近くなったのに、さっきよりずっと遠いところから眺めている気分だった。いくら見つめてもこの人が一体どう思っているかなんて、何を考えているかなんて、陽毬には到底理解できないということを、改めてそんな形で分からせられた気分だった。じっと黙っていると、波多野がふっと視線を上げて、それに正面から捉えられる。 「ダメだった?」 「・・・いいえ、いいと思う。凪、いい名前」 「やった。じゃあ凪だ、今日からお前は凪だよ、よろしくね」 波多野が腕の中の赤ん坊に話しかけて、また一層目尻を下げた。その時、赤ん坊の手に波多野が近づけた人差し指を、凪と名付けられたその赤ん坊がきゅっと握った。 「ひまちゃん!」 「・・・なに」 「い、今、凪が僕の指をぎゅって・・・!」 「ただの反射だから、驚くことじゃないと思うけど」 小さく溜め息を吐きながら陽毬が言うと、波多野はそれにあははとまた声を上げて笑った。何が可笑しいのかよく分からない。本当のことを言っただけなのに、波多野はよくそうして笑う人だった。優しくて良く笑う人だった。その優しさに付け込んでこんな形になっていることを、波多野は本当はどう思っているのだろう。聞いてみたいような気もしたし、聞いてはいけないような気もした。例えそれが打算でもよかった。利用できるものなら全部、利用してくれて構わないと思った。自分のことも、そして何も知らずにすやすやと眠る未知の生物のことも。いつかこの時の選択を波多野が本当の意味で後悔する日が来たら、その時は自分のせいにしてくれて構わないと陽毬は黙ったまま思ったけれど、多分この優しい人は、それすらも自分で背負うつもりでいるのだろうなと、聞かなくても分かることを陽毬はただ黙って考えていた。 凪が生まれたのは、海の向こうに水平線まで見えそうなくらい、静かで穏やかな春の日だった。

ともだちにシェアしよう!