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第26話

路肩に止めたハリアーは行く先を失って、静かにただ主人の命令を待っている。凪の肩越しに見える外の景色は暗くけぶっていて、雨でも降りそうな空だった。事務所を出てきた時はまだ晴れていたような気がすると、それを見ながら波多野は思った。何となく凪が上手くない方法で取り繕ってぎこちなく会話を続けるのに、このまま何もなかったことにもできるのかもしれないなんて、自分に都合のいいことをまだ考えてしまうようではダメだった。嘘はもう十分だった。本当のことを伝えて、今度こそ誠実に父親をやらなければいけなかった。波多野はそれを使命みたいに感じていたけれど、それが本来の父親像ではないことくらい、波多野だってよく分かっているつもりだった。本当の父親だったら、こんなに一生懸命役割を取ることはしないだろう。でも波多野には他に仕様がなかった。凪の本当の父親ではないという事実が、確かにそこにあるのだから。 「凪、凪がどういう形でも僕のこと好きだって言ってくれたことは嬉しかったよ」 「僕も凪のことが好きだよ、一番大事だ。凪は僕の宝物だよ」 「本当はずっと怖かったんだ、僕は凪の本当の父親ではないし、それに最近凪にどうやって接すればいいのか分からなくなってたし」 「八尋に言われたよ、僕は自分のことになると極端に鈍感になるらしい。それで凪のこともいっぱい傷つけてしまったかな、ごめんね」 波多野は凪の頭を撫でていた手をするりと凪の頬に沿わせて、そこに残る涙の跡を指で拭った。ひくりと凪の喉が鳴るのが分かった。もしかしたら続きの言葉に期待しているかもしれない凪の期待を、どんな形でも裏切ってしまうのは辛かった。けれど波多野はそれをちゃんと凪に伝えておかなければいけなかった、曖昧にして先延ばしにしたら、きっとそれでまた凪を傷つけるに決まっていた。分かっていた。 「ごめんね、凪。僕は君が生まれた日に、君の父親になるって決めたんだ」 「君はとても小さくて柔らかくて弱い生き物だった、だからこの子に降りかかる全ての悪意から僕が守ってやるんだって思ったんだ、あの時」 「でも全然、僕は君のことを守るばかりか傷つけてばかりだったかもしれないね、凪」 「でも、もうちょっとだけでもいい、凪の父親でいたいんだ、凪の父親でいてもいいかな」 ひくりとまた凪の喉が鳴って、ぽろりと凪の目から涙が零れた。凪は少しだけ俯いて、自分の手でそれを擦った。そしてゆっくりと顔を上げて、そしてにこっと笑った。弱弱しい笑顔だったけれど、波多野はそれに思ったよりも胸が痛まなかった。 「ううん、俺、弓弦さんが父親で良かった。傷ついたことなんてないよ、いち、ど、も・・・」 言いながらまた凪の目からぽろりと涙が零れた。 「・・・凪」 「ごめん、弓弦さん、ごめんね。俺も頑張っていい息子になるから、だから・・・」 また凪の目から涙が零れたけれど、凪はそれを自分で拭った。凪はそういう強さのある子どもだった、子どもだったけれど。波多野の目には子どもにしか見えなかったけれど、凪はその時、やっぱり波多野の知らない熱っぽい目をしていて、いつからこんな表情をするようになったのだろうと思った。そしてそんな顔で凪が必死に見ているのが自分で、その茶色い瞳に映っているのが紛れもない自分であることは、波多野の中に知らない優越感を植え付けて、波多野はそれに水面下で混乱していた。凪の純粋な気持ちの前に、そんなことを思ってはいけないなんて、理性で思ったところでどうしようもなかった。 「・・・もうちょっと、弓弦さんのこと、好きでいてもいい・・・?」 震える凪の手が波多野のカーディガンを掴んで、あんなに小さかった手はいつの間にかこんなに大きくなって、誰かの腕をこんな風に掴んだりするのかと波多野はしみじみと思った。波多野はそれを、震える凪の手を上から包むように握って、凪の震えが止まりますようにと祈るように思った。自分はその凪の気持ちに応えることはできないけれど、真中が言うみたいに、凪が今度他の誰かを好きになった時には、身勝手かもしれないけれど、凪の気持ちがちゃんと報われてほしかった。凪をこんな気持ちにさせるのは、自分一人で十分だったし、こんなことは二度と起こらないでほしいと思いながら、凪の震える手をぎゅっと強く握った。その手の震えが止まるまでこうしていようと、陽毬のあの無色の部屋の中でも同じことを思った。あの日、凪は母親から全てを聞かされて、本当はどう思ったのだろう。それを聞いてみたいような気もするし、聞いてはいけないような気もした。 「・・・うん」 本当は自分のことなんか思うのは止めて、誰か別の人を好きになったほうがいいと波多野は思ったけれど、それを瞳一杯に涙をためる凪に、まさか言うことはできなかった。本当は別の誰かを好きになったほうがいいに決まっていたけれど、現実的に客観的にそうだからといって、凪が他の誰かをこんな風に好きになれるわけではないことを、波多野は痛いほど分かっていた。真中が言っていたみたいに、凪のこの気持ちはきっと、鍵をかけられて心の奥に仕舞われていたのだろう、こんな風になるのは分かっていたことだから、波多野には言わないつもりでいたのだろう。それを凪に言わせてしまったのは、自分の責任だと波多野は分かっていた。凪がその気持ちを黙ったまま、言わないでいたらどうなっていたのだろう。その時は自分は何も知らないで無神経にまだ凪の父親でいたのだろうか、いられたのだろうか。その無神経は凪の純粋な思いを突き刺しただろうけれど、きっと凪には一抹の望みも与えてくれただろう。いつか波多野が同じ気持ちで向かい合ってくれる、そんな幻想を凪に抱かせ続けただろう。それはどうなのだろう。どちらのほうがよかったのだろう、どちらにしても結局凪を傷つける存在にしかなれない自分のことを、波多野は憎らしいと思ったけれどどうしようもないのも事実だった。凪の頭を撫でていた手を伸ばして、波多野は凪の震える手を握った。凪がぎゅっと目を瞑るのに、溜まっていた涙がぼろぼろと行き場を失って落ちていった。綺麗だった。それは見たことがないくらい綺麗な雫だった。 「・・・あり、がとう、弓弦さん」 それでも凪はそこでありがとうなんて呟くのだ。胸が痛かった。好きだって言ってやりたかった。どうせなら凪と同じ気持ちにでも何でもなってやりたかった。それで自分の成りたかった凪の父親を辞めることになっても、凪の涙を拭うことはできても止めることができない波多野は、そこで凪の手を握って黙っていることしかできなくて、凪のほうがずっと大人でずっと現実をよく分かっていた。真中も言っていたけれど、本当に悲しくなるくらいに、こういう時凪は賢くて絶対に波多野を困らせたりはしないのだ。 (ごめんね、凪) (でも僕は、君に謝ることもできない) (何にもできない、だから凪の気持ちくらい好きにしたらいい) 思って波多野はぎゅっと凪の手を握った。痛いくらい握ってもまだ何か足りないような気がした。いつかこんな恋をしたことを忘れて、凪が誰か別の人を好きになればいいのにと、そしてその誰か別の人に特別愛してもらうことができればいいのにと思ったけれど、波多野はそれを現実としてうまく思い描くことができなかった。それは多分、凪がもう自分の残りの人生で波多野以上のひとに出会わないと、密かに決めつけみたいに思っていることと、同じだった。波多野も凪が別の人を愛する日が来ればいいのになんて、半ば妄想のように思いながら、そうならない現実から多分目を背けていた。そんなことは起こらないことを、多分波多野もよく分かっていた。それでもそれを祈らずにはいられなかった。それが凪の幸せなのだとしたら。祈らずにはいられなかった。 (愛しているよ、凪。君はずっと僕の宝物だ) その涙を止める方法はそれひとつだと、分かっていたのに。

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