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第25話

スタジオの地下駐車場に降りていくと、白のハリアーの隣に立っている人影が遠くから見えた。逃げ出したくなる。そんなに数の多いことではなかったけれど、例えば休日に撮影があると、終わると波多野は時々迎えに来てくれた。そしてそのままふたりでご飯を食べに行くこともあった。楽しかったなぁとその人影との距離を詰められないまま、凪は思った。もうそんな風にふたりで出かけることもなくなるのだろうか。ただでさえ、自分と波多野野の間には、何にもない、文字通り他人なのが分かってしまったのに。じっと見つめていると、凪の気配に気づいたのか、ふっとその影が動いて、凪はなんでもない顔を取り繕って、さっき柳本に考えていることが顔に出ると言われたばかりだったけれど、何でもないふりを、とにかく凪は何でもないふりをしておくほうが得策だと思ったので、何でもないふりをして、足取り重くハリアーに近づいて行った。地下駐車場は、そこが薄暗くて光が届かないという以外の理由で、とても空気が冷え切っているような気がした。 「凪」 「どうしたの、弓弦さん。まだ仕事中でしょ」 「あー・・・うん、早退してきた」 「八尋に怒られるぞ」 言いながらぎこちなく笑うと、波多野も同じように笑ってくれたから、凪はほんの少しだけほっとしていた。元には戻れないかもしれないけれど、なかったことにはできるのではないかと、少しだけ期待していた。波多野が運転席の扉を開けるのに、凪も助手席のほうに回って扉を開けてそこに乗り込んだ。このまま波多野のマンションに帰るのは、流石の凪でももうどう取り繕えばいいのか分からなかったけれど、多分この車の行き先はそうだった。こうなってみれば、今から事務所に泊まりに行くのは無理そうだし、多分波多野はそれに気づいて先回りして凪を迎えに来たのだろう。それはきっと凪を呼びに来た柳本にも露見している。少し癪ではあるが、どう考えてもこのまま波多野の家に行くよりかは、陽毬の家に帰ったほうがマシだった。ちらりと運転席に座る波多野を見ると、凪にはそこでハリアーのハンドルを握っている波多野はいつもの波多野と何ら変わらないように見えた。それにまた少しだけほっとする。ややあって、車は暗い地下駐車場を抜け出した。 「ねぇ、弓弦さん」 「なに?」 「俺さ、陽毬の家帰ろうかと思って」 なんて言われるか少しだけ怖かったから、凪は自分の鞄を膝の上に抱いて、窓の外を見ているふりをした。 「・・・うん」 「あのさ、あの、綺麗になってたから!だから、もう帰っても大丈夫かなって」 「うん」 隣でやけに静かに波多野がそう頷くのに、そっと凪は視線を窓から運転席に移した。波多野はそこでハンドルを握って前を向いていた。凪の目にはそれはいつもの波多野に見えた。それにほっとしたような気もするし、胸を焼かれたような気もした。自分の言葉では波多野の中の何も、揺るがせないことは分かっていた。血なんて繋がっていなくたって、紙切れ一枚の契約結婚だって、波多野はいつだって凪の前では父親だった。波多野が父親であろうとしてくれていたことを、凪はよく分かっているつもりだったし、自分だってできることならいい息子でいたかった。自慢のいい息子でいたかった。だからこんなことを言って、ふたりでぎくしゃくするのも嫌だったし、疎遠になるのも嫌だった。こんなはずじゃなかった。 「凪?」 「・・・―――」 ふっと自分のことを呼ぶ波多野の声が聞こえて、ぱっと顔を上げると波多野はそこで少し困った顔をしていた。困らせるつもりじゃなかったのだと言っても、もう無駄なのだろうなと思ったら、その波多野の顔が歪んで、何故だか目からぼろぼろ涙が零れて落ちていった。なかったことになんてできなかった。それで元のようにもう戻れなくたって、自分の口から出た言葉は、何かを取り繕うための言葉じゃなくて、波多野を慰めるための言葉じゃなくて、それは凪にとっての真実だったから、もうそれを今更なかったことにはできないし、自分はもう二度と波多野の隣で何も知らない顔をしてにこにこ笑っている息子には戻れないのだと確信した。 『あなたの知りたかったことはこれなの』 陽毬の言葉が頭の中で反響する。 「凪」 いつの間にか車は止まっていた。波多野の腕が伸びてきて、それが自分に触れるその一瞬、凪は涙を拭って、波多野のほうに向き直った。波多野の手が空中でぴたりと止まる。 「弓弦さん、ごめん」 「・・・なんで凪が謝るの?」 「だって、だって、俺・・・」 ひくりと喉の奥が鳴って、それ以上は言葉にならなかった。空中で止まっていた手がゆっくり動いて凪の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。優しくて大きい手のひらだった。好きだと思った、心から。多分それがどんな種類の感情なのか分からない時からずっと、凪は波多野のことが好きだった。この大きくて優しい手を、どうしても失うことができなかった。大人しく無害な息子のふりをして黙ってにこにこ笑っていれば、その地位は自分ただひとりのものだった。陽毬に冷たくされればされるほど、気の毒がって波多野は優しくしてくれたから、凪はそういう意味では一度も陽毬のことを恨んだことはないし、むしろ感謝すらしていた。自分の純粋なはずだった思いが、そんな風に徐々に歪んでいく様を見ながら、俯瞰でそれを眺めながら、それでもこの思いの行き着くところがどこにもないのだと分かっていたから、どうなってしまってももう自分にとって一緒だと思っていた。波多野にまさか伝えるわけにもいかなかったし、この気持ちの行く先は決まっていたはずだった。 「ごめん、困らせるつもりじゃなかったんだ、弓弦さんのこと」 「・・・うん」 「ごめん・・・」 波多野は優しい顔をして、俯く凪の頭を撫でていた。他に沢山言うことはあったような気がしたけれど、凪はこんな時にもう頭が真っ白になってしまって、他に言う言葉が思いつかなかった。言葉にならないそれがぼろぼろと雫になって、ぽたぽたと紺色のチェスターコートに吸い込まれていった。 「大丈夫だよ、凪。謝ることなんて何にもないよ」 「でも・・・」 「大丈夫、流石にちょっと、びっくりはしたけど」 「・・・―――」 思わず凪が顔を上げると、波多野はそこで優しい顔をしていた。凪の一番好きな優しい顔をしていた。好きだと思った、心から。もうこんな気持ちを、他の誰かに育たせるのは無理だと分かっていた。凪の心に育ったこの気持ちは、未来永劫波多野だけのものだった。それなのに、その一番好きな人には、自分の手を取ってもらえないなんて、それを望むことすら自分にはできないなんて、凪はその運命を呪ったらいいのか憎んだらいいのか分からなかった。けれどその、陽毬が運命と呼んだそれのおかげで、凪は波多野の唯一無二でいられているのだから、それを手放しに悪者にすることもできなかった。元に戻りたいなんて嘘だった。何も知らない物わかりのいい息子でいるなんて無理だった。だって好きだったのだから、こんなに悲しいのも苦しいのも、それは全部相手が波多野だからだ。他の人相手にならこんな気持ちにはならない。胸を焼かれるようなこんな気持ちには。 「大丈夫だよ、凪。本当は僕が謝らなきゃいけなかったのに、凪に一杯謝らせてごめんね」 「・・・ゆづるさん」 「凪・・・―――」 そこで波多野が口を開けるのが、凪にはスローモーションのようにゆっくりして見えた。

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