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第24話

ややあって事務所からの電話に出るとともに、ばたばたと世話しなく柳本は前室から出て行った。凪以外のモデルやタレントも抱えているから、彼女は基本的にとても忙しい。それなのに会うといつもにこにこ笑っていて、疲れた素振りなんて見たことがないし、凪の小さい仕事まできちんとチェックをしていて、それがきっと仕事をするということなのだろうなと、ぼんやり凪だって思うけれど、それにしてもすごいなと思っている。凪は昔から大人に囲まれて生きていたから、大人と話をするほうが楽で良かったけれど、柳本はその大人の中でも凪の尺度でちゃんとした、ちゃんと適応的な大人のひとりだと思っていた。だから柳本には本当のことを言いたかったけれど、やっぱりそこまで勇気が出なくて何となく誤魔化してしまった。 (今から帰ったら、きっとまだ弓弦さん職場だし、着るものと、あと鞄持って、暫く事務所にいよう) 考えながら、凪はお菓子の皿の隣に積まれていた自分がモデルを務める今月号の「CLOW」を一冊引き寄せると、何気なくページをぺらりと捲った。今月の巻頭特集は最近テレビにも出ている若手のモデルが務めていた。裏で会うと素っ気ない印象の彼も、そこでは実に爽やかにほほ笑んでいる。ぱらぱらと捲っていくと、自分の写真が不意に出てきて指が止まる。凪はそこで壁に凭れてあらぬ方向を見ている。次のページではカメラを見て、しっかり微笑んでポーズを決めていた。 (悩みなんて、なさそう) 少なくとも父親のことを好きになってしまって、ずっとそれを隠そうと思っていたのに、思わず口走ってしまったせいで家に帰れなくなってはいなさそうだと思いながら、雑誌を閉じた。何となく自分が、陽毬と波多野の息子ではないことを、凪は感じていたけれど、何となくそうだろうなと思うことと、母親から真実を聞かされるのとはまたわけが違うと思った。色んなことが明るみになった後、陽毬はいつもの調子で「これがあなたの知りたかったことなの」と呟いたが、そんなことは凪のほうが聞きたかった。これは自分の知りたかった真実なのだろうか、隣に座る波多野の手が、可哀想なくらい震えていて、自分はこの優しい人を傷つけてまで、本当のことを暴いてどうするつもりだったのだろうと思った。この人が自分にそれが真実だと思っていて欲しかったなら、それが空虚だと分かっていても、それに付き合ってやればよかったのかもしれないと、それなのに震える手で自分のことを必死に慰めようとする波多野を見ながら考えた。 波多野のことが好きだった。小さい時は無邪気に父親だと信じられていたその人のことを、いつからそんな目で見るようになってしまったのか、凪はもうよく覚えていないけれど、物心ついた時にはもう、波多野は凪の唯一無二の存在だったし、他の何を失っても良かったけれど、あの優しい手だけは失えないと強く思っていた。自分が母親に反発していたのも多分、紙切れ一枚の契約結婚だったとしても、陽毬が波多野の妻であることは、紛れもない事実で、それは自分にいつも敗北を突き付けてくる存在だったからなのかもしれない。誰に何を言われたってどうでも良かったけれど、波多野にだけは褒めてほしかったし喜んでほしかった。なのに上手く息子になりきることもできなくて、そういう葛藤は時々凪の細い首を絞めて、息ができなくなることもあったけれど、それでも波多野はいつも優しくしてくれたし、そして時々凪のために本気で怒ってくれた。好きにならないでいい方法を、誰か知っていたら教えてほしいと思うほど、自分の気持ちは自然なものだと思うし、この後の人生で波多野以上の人が自分の目の前に現れるわけがないと、凪はもう16歳にして確信すらあった。 (失敗したな、黙っとくつもりだったのに) (困らせたいわけじゃないんだ、弓弦さんのこと) 自分のせいだと言って俯いて苦しがる波多野のことを、はじめてみた。そんな風にその人が弱っているところを、そういえば初めて見たような気がする。波多野はもう大人だったし、きっと若さゆえに身の回りで起こる色んなことにきっとそんなに振り回されることはないのだろうけれど、それでも日々辛いこともあるだろうし悲しいことだってあるだろう。けれど凪の前では、波多野はいつも優しく笑っていて、そんなことは存在しないようだった。俯いて苦しがる波多野を見ながら、凪は焦ってどうしてもこの人を慰めて顔を上げさせなければ、と思った。方法は他にもあったはずなのに、そんなときに取り繕うことができるほど、凪はまだ大人にはなっていなかった。結果的に波多野はびっくりして自分を責めるのを忘れてくれたけれど、結果がこれではどうしようもない。考えながら凪は奥歯を噛んだ。もう自分は戻ることはできないのだろうか、波多野の隣で無邪気に何にも知らない顔をして、頭を撫でられていたあの頃には、もう戻ることはできないのだろうか。 (どうせ恋人にはなれないんだ) (だったらせめて、いい息子のままでいたかったな) 考えながら椅子を引いて、凪は立ち上がった。マンションに荷物を取りに帰っている間に、鉢合わせになることだけは避けたかった。今波多野がどんなに優しい言葉を使っても、凪は多分自分が傷つく以外の選択肢がないことは分かっていたし、それを今どんな形でも浴びるのは嫌だった。いつなら良いのか。いつならそれに耐えられるのか、そんなことは聞かれたってとても答えられそうにはないけれど。ドレッサーの前に散らかした私物を鞄の中に放り込んでいる時だった。また扉がトントンと叩かれて、凪は振り返った。 「はーい」 「・・・ごめん、凪くん」 するとそこからさっき出て行ったばかりの柳本がまた顔を覗かせた。何か忘れものか、それとも撮影のミスでも見つかったのだろうか。柳本は少しだけ開けた扉からするりと体を滑り込ませるように入ってきて、ゆっくり後ろ手で扉を閉めた。 「どうかした?なんか撮り直し?」 「・・・いや、お迎え来てるよ、お父さん」 「は?」 柳本は少しだけ言い辛そうにしたけれど、そうやって言った後は、いつものようににこっと笑った。凪は混乱する頭のまま、もう一度時計を確認した。まだ昼を少し過ぎたところだった。仕事が終わる時間ではないのに、なぜ波多野がここに来ているのだろう。自分が逃亡しようとしているのがばれているのか、考えながら凪は小さく舌打ちをした。自分が考えつくようなことは、当然だが波多野が思いついても可笑しくはなかった。しばらく顔を合わせないでいたら、こんなことを自分が口走ったことを、波多野は忘れてはくれないだろうかなんて、少しだけ都合がよすぎただろうか、やっぱり。今は会いたくないのに、会ったら余計なことを言ってしまいそうだったし、それで波多野を傷つけてしまいそうで怖かった。波多野の自己嫌悪を止めるために、自分はそれを口走ってしまったのに、そんなことになったら本末転倒だ。 「凪くん」 「え?」 そういえば部屋の中にはまだ柳本がいた。考えながら無意識に眉間に皺が寄っているのを、慌てて何でもない表情を作る。 「何があったのか、私はよく知らないけどさ、喧嘩したんなら、早めに謝っといたほうがいいと思うよ」 「・・・別に喧嘩じゃ・・・」 「そうなの?ならいいけど。凪くんってほら、考えてることが割と顔に出るタイプじゃん。自分じゃクールと思ってるのかもしれないけど」 言いながら柳本は肩でふふふと笑った。凪はそれに眉を顰めて、少しだけ嫌そうな顔をして見せたけれど、柳本の言いたいことは何となく分かっていた。 「折角、お父さん迎えに来てくれてるんだから、ちゃんと素直になったほうがいいよ」 「・・・分かってるよ」 とても柳本には本当のことなんて言えそうにもなかったけれど、それが凪にとっては精一杯の素直だった。

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