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第23話

鏡の中でぼんやりした目をしている自分は、いつもストレートの髪に緩いウェーブがかかっていて、前髪はガチガチにワックスで固められていた。確かに春めいてはきているが、まだ外の空気は冷たいのに、何故かもう半袖を着ている。それも気分ではないのにばきっとしたビタミンカラーのイエローで、わざとテンションを上げるように指図されているみたいだと思って、リップのせいで薄く色づいた唇を尖らせて、凪は小さく溜め息を吐いた。白いテーブルの上には、お皿の上に小袋に入ったお菓子がいつものように山のように積まれていたけれど、いつもは撮影が終わった後、それを摘まんでジュースを飲んで、暫くゆっくりしてから帰るのだが、今日はそれを食べる元気もなかった。机に頬をくっつけてじっとしていると、コンコンと扉をノックする音がした。 「・・・はーい」 面倒臭かったけれど一応返事をする。もう今月分は終わったから帰っていいよとさっき言われたはずだったけれど、もしかして何か不備でもあったかなと思った。そう言うことは決して頻繁ではなかったけれど、時々はあったので、凪は終わった後もすぐに帰らず、用意された前室でじっと暇を持て余したりしている。凪にとって家は決して楽しいところではなかったので、外にいたほうが気が楽だったこともある。特に撮影現場は大人が多くて、そしてその大人は皆凪に優しくしてくれるから、モデルの仕事はそういう意味では好きだった。昔から年の近い相手とはうまくコミュニケーションすることができなかったので、同じモデル仲間と未だに全然仲良くなれなかった凪であるが、その分スタッフとはよく喋っていた。 「凪くん?」 「・・・あ、(アン)ちゃん」 その時扉を開けて顔を覗かせたのは、凪の所属している事務所のスタッフで、一応凪のマネージャーという肩書のある柳本(ヤナモト)だった。柳本は他にも所属のタレントのマネージメントを担当していたから、凪の現場に来ることはそんなに多くはなく、凪は定期的に柳本から送られてくる仕事のメールを見て、スタジオまでひとりで普通に電車に乗って来ている。モデルなんていうと華やかな職業に聞こえるし、中にはマネージャーがべた付きでタクシーで送り迎えされているような、売れっ子のモデルがいないわけではいなかったけれど、それは一握りの成功者だけなのだと、凪はその光に当てられて、少しだけ卑屈になって思った。 「なに、今日来てたの?」 「うん、っても今着いたとこだけど、ごめんね。今月凪くん巻頭特集でしょ?見とかなきゃと思って、さっきチェックしてきたよ」 言いながら柳本はにこにこ笑って、凪の向かいの椅子を引いてそうするのが当然みたいにそこに座った。褒められ慣れていない凪は、それに少しだけ恥ずかしいような気がして、後頭部をがしがしかいた。そこはワックスがあまりついていない。 「あ、そ。っても特集、俺だけじゃないけど」 「でもすごくない?凪くん頑張ってるね、えらいえらい」 「・・・―――」 柳本はにこにこ笑っている。柳本はいつ会っても愛想がよくて、そしてよく喋る人だった。けれど人の悪口は言わないし、とても明るいのでいつもは喋っていると、こちらまで明るい気持ちになるから好きだったけれど、今はそんなことで凪の心は決して晴れたりしないから、その柳本の明るさは、凪にとっては少し鬱陶しいくらいだった。そんなこと本人には絶対言えなかったが。 「なぁ、杏ちゃん」 「んー?どうしたの?お菓子貰っていい?」 「いいんじゃない。あのさぁ、俺、今日さぁ、事務所泊まっていい?」 テーブルの中央に置かれた皿の上に、無造作に盛られた小包装のお菓子の中から、チーズ味のそれを選んで柳本はそれを躊躇せずにびりっと破いて中身をポンと口に入れた。何となくその柳本を正面から見るのは勇気が出なくて、凪は机に右頬をくっつけたままぼそぼそと柳本から視線を外してそう言った。自分でも少し疚しいことをお願いしているという、自覚はあった。 「・・・別にいいけど。どうしたの、またお母さん帰って来ないの?」 柳本はそんな凪の胸中を察したみたいに、少しだけ声のトーンを落として、笑いながらそう言った。柳本は凪が今の事務所と契約してからの付き合いで、その関係で陽毬とも何度か会っているし、凪から様子も聞いているので、大方どんな人物なのか見当はついている。口出しされない分、マネージメントの観点から言えば楽なのだろうけれど、あんな風に息子のことに興味がないと全身から伝わってくる母親とは初めて会ったと、陽毬と初めて会って言葉を交わした時のことを思い出しながら、柳本は机に寝そべったままの凪をそっと見やる。そういう複雑な家庭環境で生きてきた凪は、多分同世代の男の子よりも遥かに、ずっとはやく大人でいることを求められたのだろう。その不貞腐れた横顔ですら、年相応にはとても見えなかった。 「うーん、まぁ」 「まぁ誰かしら事務所にはいると思うから、仮眠室空いてたら泊ってもいいけど」 「・・・ありがと。学校はちゃんと行くから」 柳本が快諾してくれたことに心底ほっとしながら、凪はやっと顔を上げて正面に座る柳本を見やった。学校の出席日数のことは、柳本に相談したら、一応渋い顔はされたけれど、「凪くん頑張ってくれているから、ちょっとは口添えしてあげる」と言われた。柳本がどんな風に学校に伝えてくれたのか、凪には知る由もなかったけれど、あれ以来担任は出席のことについて何も言ってこないので、きっとうまくやってくれたのだろうと思う。こんな時自分を庇ってくれるのは母親ではないことを、凪は多分本能的に理解している。 「あれは?お父さんは?お仕事?」 「・・・うーん、まぁ・・・そんなとこ」 何か良い言い訳があるかどうか考えたけれど、結局何も出て来なくて歯切れの悪い回答になる。柳本は陽毬と会ったことがあるみたいに、凪の父親、波多野にも会ったことがあった。波多野は陽毬に比べたら普通の大人で、確かに凪くらいの息子がいるにしては随分若いような印象を受けたけれど、その割にずっと落ち着いていて、凪の大人っぽい雰囲気は彼のこういうところが影響した結果なのかもしれないと、陽毬と会った時とは全く違うことを、柳本に思わせたりした。家庭の事情はよく分からないが、どうも凪の両親は仲が悪いわけではないのに別居をしていて、凪は陽毬と一緒に住んでいるらしい。けれど母親が帰って来ない日が続くと、流石に不便なのか何なのか、柳本にはよく分からなかったけれど、近くに住む父親の家にいることもあって、凪はどうも二人の間を行ったり来たりしながら生活を送っているようだった。 「泊るのはいいけど、ちゃんと連絡しなきゃダメだよ。凪くんは未成年なんだし」 「・・・うん、分かった」 凪はその時大人しくそう言ったけれど、何となく柳本は凪がその場凌ぎでそう返事をしているだけなのだということは聞かずとも分かった。凪にはどうもそういうところがある。何となくその場凌ぎに、相手に気持ちのいい返事だけをして本心を隠そうとするところがある。考えながら、柳本はチーズ味のスナックをもう一度口の中に放り込んだ。柳本が凪と出会ってからずっと、凪は母親とは上手くいっておらずに、時々こうやって避難するみたいに事務所に泊まりたがる。それでも父親とは仲が良かったみたいで、数日過ごすと今度は父親の家に行ったりして、そうやって浮草みたいにふわふわと定まらない生活をしている凪のことを、他人の柳本だって勝手に心配しているのに、あの表情のない母親は心配したりしないのだろうか。 (父親と喧嘩したのかな、凪くん) 父親のところに行かない選択肢をすることが、凪の場合珍しくはなかったけれど、何となくいつもの家出の延長ではないような気がして、柳本は奥歯を少しだけ噛んだ。

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