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第22話

「凪はそんなに馬鹿じゃないだろ、本当にお前のことを困らせることなんて、あいつにできるはずがない」 「・・・―――」 「正直、凪は言わずにずっと隠しとくつもりなんだろうなって思ってたよ、俺は。都合よくお前は気づいてないみたいだったし」 「え?」 「それでもお前に好きだって言わなきゃいけなかったことが、あいつにとってどういうことなのか、お前はもうちょっと考えたほうがいいと思うぜ。ユヅ」 さあっと風が吹いて、真中はそれを遮るみたいに小さく震えると、オールブラックのコートのポケットに手を突っ込んだ。波多野はそれを見ながら、ぼんやりと見ながら、今まで考えていたことではないことに、頭の中を急に支配されて混乱を極めていた。その時真中が何でもないように呟いたそれが、波多野には全く理解できずに、さっきとは全然違う理由でこめかみが疼いていた。 「・・・ちょっと待って、どういうこと」 「知らなかったのはお前だけだってこと」 「・・・そんな」 「陽毬だって気づいてんじゃねぇかな、あいつもあれで変に敏感なところあるしな」 何でもない顔をして真中が呟いたそれが、波多野の耳から入った瞬間に熱を持って、波多野は自分の顔が焼けるように熱いのを自覚した。知らなかった。凪が自分のことをそんな風に熱っぽく見つめていたなんてことを。ずっと優しい父親のつもりで接してきた波多野には、理解できるわけがなかったし、気づける術なんてなかった。凪がいつか大人になって誰かと恋愛をする未来があることは、具体的ではなくてひどくぼんやりと頭のどこかでは理解しているつもりだったけれど、当面はそんな心配もなさそうだと勝手に思って、時々ひどく子どもっぽいやり方で甘える凪の頭を撫でて、波多野はずっと父親のふりをしていた。凪がそれをそうではないベクトルで解釈したり理解しているなんてことを、一番近くにいたのに、いや一番近くにいたからこそ、波多野だけはそれを自覚することができなかった。凪のやり方がいくらあからさまで露骨であっても。 「そんな・・・八尋・・・知ってたの、凪が僕のこと好きだってこと」 「知ってたって言うか、見てりゃ分かるっていうか」 「・・・見てれば・・・わかる・・・?」 「お前もあれだよな、ほんと人のことは良く気づく癖に、なんでか自分が絡むと極端に鈍感になるよな、まぁ昔からか、はは」 言いながら真中は、何がおかしいのか知らないが、重たい空気をかき消すようにそうやって快活に笑った。波多野はそれどころではなかったけれど。真中がそれを知っていたのだとしたら、ついさっき波多野が言葉を絞り出すように、凪の告白について吐露した時、リアクションが薄かったのも頷けた。真中はそれを知っていたのだ、いつから?いつから凪はあんな熱っぽい目で自分のことを見ていたのだろう、考えながら波多野は、まだ顔が熱いのに心臓だけが急に冷えたような気がした。どうして自分なんか好きになってしまったのだろう、凪のことがいくら大事でも、それに応えることなんて絶対にできないのに。凪のことを守ってやりたかったのに、一番側で心の一番柔らかいところを傷つけているのが自分だったなんて、波多野は信じられなかったし、信じたくもなかった。口の中にいつの間にか溜まった唾液を飲み込むと喉が痛かった。 「ユヅ、そんな顔すんじゃねぇよ」 「そんな顔って・・・」 一体どんな顔だ、言いかけて波多野は黙った。 「お前も陽毬も分かってると思うけど、凪はお前らが思ってるよりずっと賢い。お前が凪のそれに応えられないことだって、あいつはきっと分かってるよ」 「・・・でも」 「だからお前も今まで通り、凪のこと父親として大事にしてやったらいいんだよ。別に無理して距離を取ったり、逆に優しくする必要もないと思うし」 そんなこと自分にできるのだろうか、真中の言葉を聞きながら、波多野は頭の中を空っぽにするみたいに思った。凪に出生の秘密を明かしてしまったら、自分は凪にとって他人でしかないから、今まで通り父親でいることも難しくなるのではないかなんて、思っていたことなんて波多野は随分前に忘れてしまっていた。それを聞いて本当に一番吃驚してショックを受けて、傷ついたのは確かに凪だったはずなのに。あの無色の生活感の微塵もない部屋で、陽毬が優しい言葉を選ばないで率直に伝えたそれが、凪の黙っておくはずだった気持ちの鍵を開けることになってしまったことは、確かなことだった。その傷ついた凪のことを抱きしめて慰めることを、おそらく凪が一番それを求めている時に、波多野は以前のようにはもうすることできずに、ただ曖昧な他人として側にいることしかできないなんて、あんまりだと思ったけれど、でも他にしようがなかった。しようがないのが歯痒くて、悲しかった。凪が思っているのが自分なら尚更、波多野のできることは限られていた。 「なぁ、ユヅ」 「・・・うん」 少しだけ困ったように眉尻を下げて、真中は唇から僅かに白い息を吐き出した。 「凪の人生の中で、お前だけが凪のことをちゃんと考えてやってた、いつも」 「それはちゃんと凪も分かってる」 「だから凪はお前のことを好きになったんだろ?」 そこで真中はまたさっきと同じように真っ直ぐ波多野のことを見据えたけれど、それに突き刺されて痛いとか、誠実さが眩しいとか、正体のない後ろめたさで目を反らしたいとか、波多野は不思議ともう思わなくなっていた。思う必要など、もうなかったのかもしれない。真中は少しだけ優しい顔をして、目を伏せてまた唇から白い息を漏らした。その時の真中の顔は、まだ学生だったあの頃、二人の間に友達以外の関係なんてなかった頃、波多野がすぐ近くで見ていた真中の顔によく似ていた。あの時、凪のことを真中に相談していたら、きっと真中は自分のことを止めただろうと、波多野は今の今までずっと思っていたけれど、そこで優しい顔をして、波多野のことをきっと懸命に慰めようとしている真中は、もしかしたらあの時相談していたとしても、自分のことを止めていなかったのではないだろうかと、結局真中に相談していてもしていなくても、今と変わらない未来へその道は続いていたのかもしれないと、波多野はその時初めて思った。 「時間はまだまだあるんだからさ、そのうち勘違いだったーって、別に好きな女でもできるよ」 言いながら真中は笑って、それからくるりと波多野に背を向けて歩き出した。真中のこういう時の言葉はすごいなと波多野はしみじみ考えながら、少し小走りになって真中の隣に並ぶ。所員が皆目を輝かせて、真中さんと呼ぶその意味が、波多野には少し分かる気がする。真中は波多野が出会った大学の時から、もうすでに同級生の中では頭一つとびぬけた存在だったし、それになにより才能や実力とは関係ないところにある人間的な魅力がある人だなと、いつでも人の輪の真ん中にいる真中のことを、少し外から眺めながら思っていたものだった。その真中が、どうして自分なんかを選んで一番の友達でいてくれたのか、いてくれているのか、波多野にはよく分からない。真中にそれを尋ねてもきっと笑われるだけに決まっている。 「・・・そうだね」 「そうだろ、十代の性欲舐めんなよ」 「あはは、でもなんか・・・それはそれで嫌だなぁ」 「どっちなんだよ、お前は」 また真中があははと大きな口を開けて笑うのを見ながら、波多野は少しだけ胸のつかえがとれたような気がしていた。本当はずっと後悔をしていた。あの時陽毬と相談してふたりで決めたことを、真中に何も言わないで決めたことを、真中がそれをどう思っているか分からなかったし、どうとも思っていなかったかもしれないけれどそれでも、波多野は真中に向き合う度、少しだけそれに胸を刺される思いがしていたけれど、なんだかそれも今となっては取り越し苦労だったのではないだろうかと、笑う真中の隣を歩きながらふと思った。

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