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第21話

「随分浮かない顔してんなぁ?」 頭上から声が降ってきて、顔を上げるとそこには真中が財布だけを持った軽装で立っていた。いつの間にかまたお昼休みになっているらしい。波多野はつけっぱなしにはしていたけれど、朝から全く進んでいない文書を一応上書き保存すると、パソコンの電源をオフにした。そしてパソコンを見る時だけつけている眼鏡を外す。真中が何も言わずに半身になるのに、ぼんやりとしながら条件反射のように鞄を持って立ち上がる。真中は今日も暖かそうなオールブラックのコートを着ていた。その背中を追いかけながら、持ってきた鞄を肩にかけ直す。真中のことだから言わなくても、半分以上自分の事情は分かっているのかもしれないなんて、ありそうもしないことを波多野はただ考えていた。そうやって別のことを考えていないと、思考が何度も昨日に戻ってしまいそうで怖かったのもあった。節電のせいで電気がつかないエレベーターホールは今日も暗い。事務所内において唯一の喫煙スペースに続く扉を見やるとそこから少しだけ、曇った空が見えた。 「ユヅ、結局三人で話せたのかよ」 「・・・あぁ、うん」 「で、なに。アイツ別にショック受けてなかっただろ」 見てきたように真中は言う。いつの間にか4階に着いたエレベーターに二人して乗り込むと、密室の中はやけに静かで波多野は少しだけ息が詰まると思った。真中と二人でいることに、こんな風に思うのは初めてのことだった。親友にも決して言えないことはある。きっとあるべきだった。あの時、陽毬と結婚することを決めた時、真中は事務所の立ち上げに尽力しており、自分たちの決定や選択はそれに比べれば些末なことだと勝手に結論付けて、真中にはすべてが決まった後に報告だけをした。けれど波多野だけは知っている。真中の性格を考えると、大雑把で適当なところも確かにあるけれど、真中は不条理がきっと嫌いだから、そういう真中の性格を考えると、きっとあの時自分が陽毬とのことを相談していたら、真中はきっと自分のことを止めただろうと、波多野は今でも思っている。波多野は真中が忙しいから、こんな些末なことで真中を煩わせるわけにはいかないからと、言い訳をして波多野は結局、あの時真中から逃げたのだろうと思っている。そのしわ寄せなのかもしれないけれど、それにしても今真中に正論で諭されるのには耐えられそうにもなかった。考えているうちにエレベーターは1階に着いて、真中は振り返らずに箱の中から出て行った。外の冷たい空気を吸い込んで、波多野は少しだけほっとした。 「で、どうなんだよ」 真中は今度は逃げ場なんてくれないのだなと、その背中を見ながら波多野は思う。あれから何年も経って、自分も真中もきっと同じだけ年を取ったけれど、それでも二人の関係性だけとってみれば、変わらないでいることのほうがずっと多かった。多かったように思う。波多野は少しだけ足を速めて、先を歩く真中に追いつくと、その隣を真中の歩調に合わせて歩き始めた。 「いや、ショック受けてたよ、でも知ってたとも言ってたな。でも」 「へぇ、でも?」 言いながら真中は、すっと視線を上げて歩きながらあたりを見回した。昼食の場所を探しているのだろうと、それを見ながら波多野は思う。 「僕のこと好きだって言ってた、凪」 「・・・ふーん」 波多野が少し緊張して言葉を繋いだのに、真中の返答はやけに素っ気なかった。その理由を波多野は分からない。勘ぐることすらできない。それ以上何を言ったらいいのか分からなくなって、波多野が不意に黙り込むのに、きょろきょろと視線をさ迷わせて昼食の場所を探していた真中はふっと立ち止まって、振り返って波多野のことを見やった。そういう真っ直ぐな真中の目に、また正論を言おうとしていると思って、波多野は何度でも委縮する自分のことを慰めることもできない。 「いいじゃねぇか、別に」 「・・・いいってなにが、よくないよ」 「お前だって凪のことは好きだろ」 口から曖昧な笑みが零れて、思わず波多野は片手で顔を覆った。真中が何を言っているのか分からなくなることは、これまでも時々あったけれど、今回と今までのそれは全然質の違うことだと思った。今、波多野は人生で一番ではないかと思うほど、困り切っていて自分ではもうすべてのことをひとつも処理することができずに、真中にそれを吐露しているというのに、真中がそんな自分の混乱など全く理解しようともせずに、ただばっさりとそんな表層だけを掬い取った形で応じてくるなんて思いもよらなかった。凪のことを一つも相談しなかったくせに、困った時だけ優しくしてほしいなんてまるで子どもだと思いながら、波多野はそれでもそれを真中に求めざるを得ないほど、混乱していたし追い込まれていた。 「・・・好きだよ、でも僕の好きと、凪の好きは全然違うよ」 「どう違うんだよ、違わねぇよ、どこも」 「違うよ、僕はずっと凪の父親だったんだ、血なんか繋がってなくたって、僕はずっとこれでも、凪の父親をやってきたつもりだったんだ、それなのに」 それなのに。その続きの言葉を考えて、考えながら、波多野は息を飲んだ。自分はこの後何を言うつもりだったのだろう。それなのにそんな風に凪に言われて、傷ついたなんてまるで自分が被害者みたいなフリをしようとしたのではないかと思って、一瞬でゾッとした。あの子が今まで見たことがないくらいの必至な形相で、波多野の腕を掴んで、「そんなことない」と否定してまで守りたかったものが、こんな時まで自己防衛に必死な自分のことだったなんて、波多野はどうしても思えないし、思いたくなかった。あの凪の瞳から溢れた綺麗な大粒の涙が、ソファーに落ちてそこに跡をつける様までしっかり覚えているのに、波多野はその時俯いて言葉を漏らす凪に向かって、一体何と言葉をかけたのか全然覚えていないのだ。不思議なことに。 「だったらこれからも凪の父親やりゃあいいだろうが、別に」 「・・・え?」 ふっと視線を上げると、真中は道の真ん中で振り返ったままこちらをじっと見ていた。凪とも陽毬とも全然違うのに、それは波多野がよく知っている強い目だと思った。強い意志のある真中の目から、いつも波多野は逃げられる気がしないし、その前で嘘も言い訳も全部、暴かれて晒されてしまうような気がしている。真中がそんな乱暴な人間だなんて一度も思ったことはないくせに、その誠実さだけにはいつも後ろめたい気持ちがあるのだろうか、それはもう心の奥底の無意識で、波多野はずっと真中に背を向けているせいで良く分からない。けれどその後ろめたさの正体に、波多野は覚えがあるような気がしている。 「なんだよ、好きだから付き合ってくれって言われたのか?」 「・・・言われてない・・・―――」 そうだ、凪はあそこで大粒の涙を流しながら、波多野の腕を掴んで、確かに好きだったと言ったけれど、それ以上のことは言わなかった。それ以上のことが、具体的にどういうことなのか、波多野はぼんやり考えながらそれに結論付けるのは先送りしている。凪はただ好きだったと言っただけだった。いつまでも子どもだと思っていたのに、いつの間にかあんなに大人っぽい表情をするようになって、それで簡単に誰かのことを好きになったりして、それが寄りによって自分だったなんて、波多野はもう一度顔を手で覆った。考えながらまだ混乱している。自分は昨日の様相を一つも間違いなく思い出せるはずなのに、肝心のことは何も見えていなかったのではないかと思うとこめかみが痛い。凪は確かに波多野に好きだと言ったけれど、それ以上のことは何も言わなかった。言わなかったのではなくて、言えなかったのかもしれない。波多野がそれに絶対頷くことができないことを、凪だけは痛いほど分かっていたから。だからあんなに涙を零していたのかもしれない。凪はそうやって波多野に告白をするのと同時に、失恋するに決まっていたのだから。それでも、失恋するのが目に見えていたのに、それでも凪に口を割らせたのは一体どんな気持ちだったのだろう。それはどんな種類の。

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