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第20話

凪はまだ全てに整理がついていない曖昧な表情のまま、波多野のことをぼんやりと見ていた。その視線から逃れたいような、ずっと見ていたいような、不思議な気持ちのままで波多野は床から立ち上がり、凪の座っている隣に腰かけた。波多野の重みでソファーが歪み、凪の体の重心が変わってふらつくのを、波多野はそっと抱き寄せるようにして、凪の体を自分のほうに引き寄せた。凪は何も言わないで、波多野の腕を嫌がることもしないで、ただされるがままじっとしている。ずっと怖かった。本当のことを明らかにしてしまったら、自分だけがこの家族の中で異質だったから、陽毬が言うように血のつながりが運命ならば、自分だけはこの家族の中で運命ではないから。ひとりになるのがずっと怖くて、長い間、陽毬の幼稚な嘘に加担していた。そして陽毬にそんな嘘を吐かせたのは紛れもなく、あの日自分と結婚すればいいと波多野が提案したところからすべてが始まっている。それに凪は気づいているのだろうか。止めておけばよかったのに、それでも子どもを産みたいではなく、この遺伝子の先が見たいと言った、曇りない眼差しで言った陽毬のことを。 「弓弦さん」 「・・・ん?」 凪は波多野の鎖骨あたりに顔を埋めたまま、もごもごと不自由に言葉を漏らした。本当はもっと強く抱きしめて、その震える熱を持った体を慰めたかったけれど、波多野はその時それをするだけの勇気が自分には少し足りないと思っていた。 「弓弦さんに聞きたいことがあるんだけど」 「・・・いいよ、なに?」 怖かったけれど、凪のことを拒むことだけはできなかった。まだ少年の名残が残る凪の肩の緩やかなカーブを手のひらで撫でながら、波多野は目を伏せた。 「どうして陽毬と結婚したの、弓弦さん、陽毬のこと好きだった・・・?」 そういえば、陽毬はその話だけを凪にしなかった。自分に遠慮しているのか、何か他に理由があるのか、波多野には分らなかったけれど、陽毬があれだけ自分に正直に凪にすべてを話したのに、自分だけが誤魔化すわけにはいかないのは分かっていた。 「・・・ずっと黙ってたんだけど、凪、僕はね、ゲイなんだ」 「え?」 今まで凪の不安定だった瞳がはっと見開かれて、凪は波多野に預けていた体をがばっと起こすと両手で距離を取って、正面から波多野の顔を見た。凪の肩を撫でていた波多野の手が、行き場所を失って宙に浮いている。それを見ながら、それと凪の顔の両方を見ながら、波多野は思ったより拒絶されたことに傷ついている自分がいたことを認めざるを得なかった。行き場を失ったそれをぎゅっと握ると、凪が立った今それに気づいたみたいに、波多野の手の行く先を目で追いかけた。 「自分がゲイだって気づいたのは大学生の時だった。陽毬ちゃんと会った頃だよ」 「自分がゲイでこの先誰とも結婚できないって分かった頃だったから、僕も陽毬ちゃんのことを利用したのかもしれない」 「奥さんも子どもも両方手に入れれば、世間から後ろ指指されないと思ったのかもしれない」 かもしれない、ではなくそうだ。いまさら何を誤魔化す必要があるのだろう。だから陽毬にそんな突拍子もない提案をして、結果的に凪をこの世に誘ってしまった。陽毬が自分は若くて、人ひとりの重さが分からなかったと言ったみたいに、波多野は子どもが生まれることを、その時きっと当事者である陽毬以上に何でもないことだと思っていた。凪がこんなに熱を持った眩しいひとりの男の子であることを、自分たちの選択で凪の人生を歪めてしまうことも、こんな風に傷つけてしまう日が来ることも、あの時の自分はとてもではないけれど想像なんてできなかった。きっと今の凪よりももっともっと子どもで、将来のことは愚か、明日のことすら上手く思い描くことができなかった。そんなことが今更、贖罪になんてなるわけがないと分かっているけれど、波多野はそれでもそれを祈らずにはいられなかった。思わずにはいられなかった。 「凪、僕は最低な人間だ、悪いのは陽毬ちゃんじゃない、全部僕だ」 「自分勝手に、凪のことを沢山傷つけた、僕だ」 半ばやけくそになりながら呟いたそれが、陽毬があの空っぽの部屋で呟いた真実以上に真実だと思った。陽毬を悪者にして、ふたりで笑うこともきっとできたけれど、波多野はそれを選択することはできなかった。そこまで人でなしにはどうしてもなれなかった。こうなった以上、凪の前で誠実であることが、波多野は自分のできる全てのことだと思った。だから本当のことを話した。凪に落胆されても呆れられても、もう仕方ないと思えるほどの覚悟があったわけではないけれど、陽毬のように強い目も強い背中も自分はきっと持ち合わせていないけれど、せめてその時本当のことを言って、凪に謝りたかった。ついさっきまで確かに凪の肩を撫でていた腕の筋肉がひくりと動いて、波多野はそれを引いて自分の所有におさめようとした。 「そんなことない」 多分言葉と同じくらいの速さで凪の手のひらがさっと動いて、波多野のすっかり頼りなくなってしまった腕を掴んだのは、波多野がそれを引いたその一瞬の出来事だった。はっとして顔を上げると、凪はさっき波多野の腕を拒絶したところから随分前のめりになって、波多野の腕を掴んで、必死な顔をして波多野の顔を覗き込んでいた。さっきまで表情のなかった凪の頬には、赤さがいつの間にか戻って、不安定で焦点の定まっていなかった瞳はいつもの強い目に戻っていた。 「そんなことない、弓弦さん」 「・・・凪」 「俺、弓弦さんが父親で良かったと思ってる。誰も俺に優しくしてくれなくても、弓弦さんだけはいつも俺のこと心配してくれて、褒めてくれて、それで・・・―――」 そこで凪は言葉を詰まらせて、徐々に下がった頭をぱっと上げた。さっきまで不安そうな目をしていた子どもはそこにはいなかった。やっぱりそこで凪が波多野を見ているその瞳は、陽毬譲りの強い目だと思った。波多野はそれを見ながら、勝手に心臓が高鳴るのを抑えられなかった。いつの間に凪はこんなに大人になったのだろう、いつの間に凪はこんな顔ができるようになったのだろう、こんな顔をして一体誰のことを見ているのだろうと、現実逃避をするみたいに、息を飲むみたいに思った。すると波多野の腕を掴んだ凪の指が形を変えて、ぎゅっと波多野の腕に食い込んだ。痛いくらいだった。 「なのに、俺がぶち壊してごめん」 「え?」 唇から勝手に音になって疑問符が漏れる。 「弓弦さんは俺と家族になろうとしてくれてたのに、俺は全然上手くできなかった。どうやっても無理だった」 「弓弦さん、俺、弓弦さんが好きなんだ」 「父親だなんて一度も思ったことない、好きなんだ、ごめん・・・―――」 ふっと凪の目蓋が落ちると、凪の目から大粒の涙がぼろぼろと零れていった。あまりにそれが綺麗な雫で、まるで作り物みたいだったから、波多野はしばらく呆然として、凪が俯いて嗚咽を漏らすのを見ていた。見ていることしかできなかった。その時凪の呟いた言葉の真意なんて、自分には一生かかっても到底理解できそうにないとその一瞬で分かってしまったから、波多野はただその時大粒の涙をこぼす凪のことを、ただ見ていることしかできなかったのだ。

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