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第19話

部屋の中は随分静かだった。波多野は震えて俯く凪の肩を抱いてやればいいのか、何と声をかけてやればいいのか、そればかり考えていた。正面に座った陽毬は、まるで凪のそんな焦燥に気づいていないみたいにいつもの様相を留めていて、けれどただそこに黙ったまま置物みたいに座っていた。陽毬にとって時間は一番大切なものだったから、陽毬がそこで何も言わないで、けれど黙って動かないでいることが、その時真実に打ち震える凪を見守るために、その時陽毬ができた唯一の方法だったのかもしれない。不器用な彼女は自分の爪がどこにどんな風にあるのか気づかずに、それで他者を悪気なく傷つけたりもするけれど、それと同じ尺度でどこにあるか分からない自分の爪に、自分で傷ついたりもしているのだ。 「凪」 ややあって、陽毬がその重い口を割った。凪の視線がゆるりと動いて、正面に座る陽毬を捉えた。泣いているかもしれないと思ったけれど、その時の凪の目元は濡れていなくて、たださっきよりもずっと不安そうにその意志の強い目は揺れていた。 「さっきも言ったけど、私は結婚にも母親にも向いていなくて、あなたのことを蔑ろにしたこともあったと思う」 「何にも母親らしいことをしてやれなくて、悪かったと思ってる」 「私は若くて、人を育てるということがどんなことかよく分かっていなかった。今も分かってない」 「人ひとりの命の重さも、どんなものか想像もできなかった」 それから陽毬はその薄くピンク色に染まった唇を割って、すっと息を吸い込んだ。 「でも私たちは家族なの、あなたが私のことを心底嫌いで恨んでいたって、私たちは家族で、離れることができない」 「それはもうあなたが生まれた時に決まった、運命みたいなものなんだと思う」 そうして陽毬はその唇をゆっくり閉じて、そこですべてが終わったみたいにすっと椅子を引いて音もなく立ち上がった。もう凪に質問はあるかと聞くことはなかった。この話は全て終わったのだ、少なくとも陽毬にとっては。波多野はその背中がリビングを横切って、そして扉の向こうに消えるのを眺めていた。彼女はこれから準備をして、今日も何事もなかったかのように研究所へ行くのだろう。陽毬はそういう女だった。けれどそういう陽毬のことを、波多野は一度も冷たいとかロボットみたいと思ったことはなかった。何故だろう。陽毬の生きている世界は陽毬のルールで動いていて、何故か他人はそれを理解できないというけれど、波多野だけはそれが整然と美しく存在していることが、何となく分かるからだろうか。だからその陽毬がそんな実のないことを言うのを、波多野はその日、初めて聞いたような気がした。運命なんて強い言葉のように聞こえるけど、実際は中身のない空虚な言葉だ。波多野は凪とその何もないリビングに取り残されて、凪の震える手をそっと握った。その震えが止まったら、家に帰ろうと思った。それまではここで凪に付き合おうと、もしかしたらそれが、波多野があの日自分に課した父親という役割の、最後の仕事だったかもしれない。凪の手が形を変えてぎゅっと波多野の手を握って、凪の手はどうしてこんなに熱いのだろうと、波多野はぼんやりとそればかり考えていた。 俯く凪の手を引いて、波多野は自宅マンションまで帰っていた。あそこは凪と陽毬の家だったから、凪を置いてくる選択肢もあったかもしれないが、あんな話の後で陽毬と二人きりでいるのも辛いだろうと思ったから、凪を連れて帰ってきてしまったけれど、こんな時自分が側にいることが、凪にとって慰めになるのか、波多野には全然分からなかった。結局自分だって陽毬の嘘に加担して、16年間もずっと凪に嘘をついてきた。陽毬が自分のことを心底恨んでいたって、と言ったように、波多野は自分が恨まれても憎まれても仕方がないと思った。凪にそんな風に陰性の感情を向けられたことがないから、それはきっと自分にとっては耐えがたい苦痛になるのだろうと予想はつくけれど、凪の素直な気持ちに、例えそれがネガティブなものだって、嘘は吐いて欲しくなかった。自分たちが長い間縛られていた、嘘だけは吐いて欲しくなかった。 「凪」 帰ってきた格好そのままで、ソファーに座ったままぼんやりしている凪に、波多野はできるだけいつものように、明るく聞こえるように声をかけた。凪の頭は動かない。 「遅くなったから今日はもう出前取ろう、来るまで時間かかるから先にお風呂入ったらどう?」 「・・・―――」 凪の頭は動かない。 「凪」 波多野は少しだけ怖かったけれど、凪の正面まで回って膝をついて座り、その表情を下から覗いた。凪の瞳はやっぱり不安定に揺れていて、でも揺れているだけで、そこにはまだ涙の気配はない。凪にとって陽毬の話は、きっと衝撃が大きすぎて、まだ全部上手く処理しきれていないのだろうなと、その曖昧な表情を見ながら思う。放り出された凪の白い手をもう一度握って、波多野は祈るように思った。この後、この子の人生の中で、今日の自分たちの選択が、きっと正しかったのだと思えることを。それが自分や陽毬のエゴでも、もはや構わないと思ってしまえるほど、波多野はその時傷つきたくなかった。この後の凪の言葉にも、これからの凪の言葉にも全部。恨んだり憎んだりされて当然と頭では分かっていたけれど、気持ちが全然それに追いついていない証拠だった。 「凪、ごめんね」 不安定だった凪の目がふっと動いて、波多野のことを捉えた。 「・・・なんで弓弦さんが謝るの」 「嘘を吐いてたから、凪に」 「うそ?」 か細い凪の声が頭の上から降ってくる。波多野は視線を上げて、もう一度凪の顔を見た。凪はそこでぼんやりと焦点の定まらない眼をしていた。 「ずっと君の父親だと嘘を吐いていた、僕は君の父親じゃない、凪」 「・・・うそ」 凪はもう一度口の中でそれを繰り返した。それは決して波多野を責める色合いを含んではいなかったけれど、何故だか波多野はそれに胸を突き刺されて、結果的には胸を焼かれるみたいなひどく痛い思いをすることになった。それがその時凪が感じていた、本当の痛みだったのかもしれない。奥歯を噛んでそれをやり過ごす。もうずっと凪はこんな痛みに惑わされたり踊らされたりしていたのだろうか。 「陽毬ちゃんもね、あんな言い方しかできないけど、凪にはきっと申し訳ないと思っていて、たぶん謝ろうとしてるんだよ」 「・・・分かってる、陽毬がどんな奴かは、俺もよく知ってるつもり」 「びっくり、したよね」 「・・・うん、まぁ、でもなんとなく、そうだろうなぁって・・・いう、気もしてたよ」 そうして凪は視線を床に落として、口を閉じた。思ったよりずっと気丈だなとそれを見ながら波多野は思ったけれど、何となくそういうところは陽毬に似ている気もした。やはり二人は親子で、陽毬が言うように決して離れられない「運命」なのだろうか。もしかしたらそんな曖昧なものを、運命と呼ぶのだろうか。波多野はまた三人のうちでひとり家族ではない扱いを受けているみたいに、ひっそりとそんな資格はないはずなのに、凪と自分しかいないその空間で不思議な疎外感を覚えていた。

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