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第18話
「凪、もうあなたも薄々勘づいているみたいだけど」
言いながら陽毬はテーブルの上に置かれた一冊の本を捲った。それにはまばらに写真が挟まっていて、アルバムの類なのだとすぐに分かった。そこにいる陽毬はまだ若々しく、隣に笑顔で映っている波多野もまた同じくらい若々しかった。陽毬がこんな写真を集めてアルバムにしてちゃんと保存しているなんてことを、波多野は知らなくてそこで静かに驚いていた。そもそも陽毬は学生の頃から、研究以外には興味のない女の子だったから、青春を謳歌している他の学生たちと同じフレームに収まっていること自体が、そもそも可笑しくて不思議だった。けれど陽毬の指が捲るアルバムには、波多野の知らない陽毬の学生生活が刻まれていた。陽毬は外に出ないせいで痩せた真っ白の細い指でアルバムから一枚写真を抜き取って、凪の前に差し出した。
「あなたは確かに私とユヅくんの息子じゃない」
「生物学的にはそこに映っている『吾妻』という男の息子よ」
そうして陽毬は、写真の中の一人の男をとんとんと指で叩いて見せた。それはゼミの集合写真だろうか、全員が白衣を着て、にっこり笑って行儀よく立っている。中央にはゼミの教授らしい年輩の男もいて、吾妻はその隣に立っていた。映っている人間の中で一番背が高くて、小さい顔は端正に整っている。それはその写真を食い入るように見つめる凪とほとんど同じように見えた。それを隣で見ていた波多野は、黙ったまま吾妻も若いと思ったけれど、卒業してからほぼ顔を合わせていないので、現在の吾妻が一体どんな風貌になっているか、波多野には分らなかった。けれどその時、過去の自分や陽毬を見て若いと思うみたいに、当然のようにそこに映る吾妻にも同じ月日を感じていた。あれからもう、16年も経ったのだ。
「私が大学生だった時、はじめて自分より優秀な遺伝子をもった男に出会ったの、それが吾妻」
「どうしても欲しかったから、一度だけ彼とセックスをしてできた子どもが凪、あなたよ」
凪はまだ食い入るように写真を見ていた。やっぱりそうして見比べてみると、凪と吾妻は他人が見ても血の繋がりを憶測できるくらいにはそっくりだった。自分とは全然違う、圧倒的な血の繋がりという強い絆がそこに存在していることを、波多野はその時少しだけ怖いと思った。
「あなたの知りたかったことはこれ?何か他に質問がある?」
「・・・―――」
顔を真っ白にして凪が唇を噛むのに、陽毬は少しだけ視線を下げて、横髪が零れるのを掬って耳にかけ直した。波多野はそれを見ながら、凪にかけてやる言葉を探したけれど、何と言っていいのか分からなかった。写真を持つ手が分かり易く震えて、本当に凪はこんなことを予想していたのだろうかと思った。凪に本当のことを話すべきだと確かに思った時よりもずっと、波多野はそれを迷っていたし、もしかしたら後悔していたかもしれない。後悔しない?と陽毬が聞いてきたのを思い出した。陽毬は凪がこんな表情になることを、自分よりもずっと感覚的に理解していたのかもしれないと思うと、本当のことを凪に伝えることが、それだけが自分たちの誠実ではないのかもしれないということを、波多野はただ黙ったまま考えていた。
「俺は、陽毬の研究のために生まれたのか」
「・・・研究?」
「優秀な遺伝子同士の組み合わせがどんな風に変化するかって、いう」
「・・・―――」
凪の言葉は思ったよりもしっかりしていて、少しも震えてなんていなかったけれど、凪の黒目が言葉に合わせて揺れるのに、波多野はその体をきつく抱きしめてやりたくなった。しかし陽毬はそれに少しだけ黙って考えた後、さっと顔を上げて凪を正面から見やった。陽毬は怯えてなんていなかったし、迷ってなんていなかった。それは凪を産むと決めた時から全然変わっていない陽毬の強さだった。その時、凪のことを正面から突き刺したのはそういう覚悟のある瞳だった。
「そうね、それもあるわ」
「・・・ひまりちゃん」
波多野は思わず口走っていた。その時陽毬が何を言おうとしているのか、波多野には分らなかったけれど、これ以上凪を傷つけてはいけないと思った。凪だって覚悟してここまで来たのだろうし、何か陽毬の言うように勘づいていたことがあるのかもしれないけれど、それをこんな風に全部乱暴に明らかにされるのはやっぱり、何か違うと思った。波多野はそれが自分の逃げ出したい気持ちなのだと、半分以上分かっていたけれど、そこでそうして陽毬を諭すのを止めることはできなかった。
「弓弦さん」
けれど陽毬がそれに返事をするよりも早く、隣に座っている凪が波多野のカーディガンを少しだけ引っ張った。はっとして視線を凪に向けると、そこで凪は波多野の目を見て、そして口元を不安定に綻ばせて見せた。胸が痛かった。凪がそんな顔をして知りたい真実が、この話の結末にないことを、波多野だけが分かっていたからだろうか。振り払ってしまいたかった。
「凪・・・」
「大丈夫、俺、大丈夫だから」
そうしてゆっくりと凪の指がカーディガンを離した。止める権利なんかなかった。一番よそ者の自分が、この場所で何も決定できる権利なんて初めからなかった。凪はそれから母親譲りの強い目で、正面に座る陽毬のことをじっと見た。覚悟とはこうして、形になっていることだった。波多野は黙った。黙るしかもう、選択肢がなかった。黙ってただ、成り行きを追いかけることしか。
「・・・なんでその、吾妻?と結婚しなかったんだよ、弓弦さんは・・・」
「吾妻は結婚に向いている男ではなかったから。私もだけど」
言いながら陽毬は少しだけ視線を宙にさ迷わせた。そういう時に、愛している愛していないみたいな、感情論でそれを語らない陽毬は陽毬らしいと思った。陽毬にとってそこに付随するのは感情ではないのだ。それを波多野は嫌というほど分かっていた。
「あなたのことはひとりでも産むつもりだったけど、それを報告したら両親に大反対されて」
「それでユヅくんに相談したの。そしたら僕と結婚して、僕の子どもとして育てればいいって言ってくれた」
「私たちが婚姻関係にあるのはそういう理由があるから。ユヅくんがあなたの父親でいてくれたのも、そのためよ」
陽毬はそこで言葉を切って、すっと顔を上げて波多野を見た。波多野はそれに一体どんな顔をしていいのか分からなかった。
「ユヅくん、ありがとう。今日まで長い長い嘘をつかせてしまって。ユヅくんには一番感謝してる」
「・・・いや、僕は何も・・・」
文字通り何もできなかった。陽毬はすっと視線を凪に移して、少し俯いた格好でじっと黙ったままの凪のことを、もう一度強く見つめた。
「あなたの知りたいことは他にある?」
「・・・―――」
凪は黙っていた。黙ったまま声もなく、そしてゆっくりと首を振った。
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