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第17話
週末、波多野は凪と一緒に陽毬のマンションを訪ねていた。陽毬のマンションは波多野のそれと結構近くにあり、凪に一度、こんなに近くで別居する必要あるのかと聞かれたことがあった。陽毬の言い分では、陽毬の通勤に使う路線と、波多野の使っている路線が違うからということだったが、そもそも波多野は車通勤であるので路線は関係なかったけれど、波多野はそれを陽毬には言わなかった。それは波多野が黙っておいたほうがいいかなと思っただけで、陽毬には陽毬で、波多野を遠ざけなければならない理由があることを、知っていたわけではなかった。一応、陽毬のマンションは凪とふたりで住むように陽毬が買ったものだったが、今はほとんど凪がひとりで使っており、陽毬は路線を使う使わない以前に、家に帰って来ないことのほうが多かった。波多野は陽毬と会う時は、いつも外で食事をすることが多かったから陽毬のマンションに行くのは随分久しぶりで、扉を開けた時、陽毬のマンションはこんなだったかなと思ったほどだった。
「いらっしゃい、ユヅくん」
「お邪魔します、ほら、凪も」
扉を開けてくれた陽毬は、紺色のワンピースを着ていて、きちんと髪をまとめており、薄く化粧もしていた。外は寒いのに部屋の中にいる陽毬は薄着で、なんだかこんな時だからなのか、いつも以上に現実感がないような気がした。凪に言わせると研究に没頭している時の陽毬は、ろくにお風呂も入らないでひどい有様のようだったが、波多野の前では陽毬はそうして年相応にきちんとしていることのほうが多かった。その時凪は、不貞腐れた顔で波多野の後ろに隠れるようにしており、久々に見た母親には興味がないようだった。陽毬は波多野からゆっくりその後ろに立つ凪に視線を移すと、横からこぼれた髪の毛をさっと耳にかけた。
「久しぶり、凪」
「うるせぇ、ババア」
凪が唸るようにそう言うのに、波多野は振り返ってその腕を掴んだ。凪の鋭い視線が横に動いて、波多野の上でぴたりと止まる。
「凪」
「怒らなくていいよ、ユヅくん」
すると背中に陽毬のそんな声が当たって消える。振り返ると、陽毬は涼しい顔をしていて、こういうやりとりは二人の間では決して珍しくないのかもしれないと波多野は思ったけれど、それをそのままにしておくのはなんだか心苦しいような気がした。
「私は凪の母親なんだから」
「入りなさい、凪。あなたの知りたいこと、全部教えてあげる」
陽毬はそういうとさっと踵を返して、部屋の中に戻っていった。陽毬は覚悟をしているのだろうと思った。自分がまだ不安に思っていることや、迷っていることをきっと陽毬は知っているだろうと波多野は思っていたけれど、それを踏まえても、陽毬のほうはもう覚悟ができているのだろうと思った。その時改めて、確かに陽毬の言うように、陽毬は凪のたった一人の母親なのだろうと思った。波多野が動き出すよりもずっと早く、後ろにいた凪はさっさとそこでまだ足踏みをする波多野を置き去りにして、玄関で靴を脱いでいる。ここは陽毬のマンションで、凪の帰る家のはずだった。だから凪はそれに怯むことも、踵を返して逃げ出す必要もなかった。波多野はそこで、紺色のチェスターコートを着ていている陽毬とは違って随分温かそうな凪の背中を見ながら、三人でいることに少しだけ疎外感を覚えた。こんなことは初めてだった。
凪は波多野の家に転がり込んできた時に、部屋がごみ屋敷になったと言っていたけれど、その日、陽毬のマンションはすっきりと片付けられていた。陽毬がハウスキーパーを呼んだのだろうか。陽毬の家には必要なもの以外は何もないから、いつ来ても引越ししたばかりの家みたいに、中身がなくてがらんとしている。リビングにもテーブルと椅子しかない。凪の部屋だけは辛うじて人が住んでいる様相をそれでも留めてはいたものの、陽毬の部屋にはベッドしかないし、二人の共同スペースも陽毬が家にいないので家で使うものがないのがその主な理由なのだろうが、兎に角物がなくて、時々必要なものもここにはないのではと思うほど物がなくて、この家は人が住む場所としては無色すぎるといつも思い、波多野は時々不安になる。
「ユヅくんコーヒーでいい?」
「あ、うん」
ぼんやりといつか来た時とそんなに変わっていない部屋の様子を観察していると、キッチンにいる陽毬がそう声をかけてくる。陽毬はキッチンの上の扉を開けて、暫くそこを見つめていたが、目当てのものはなかったらしい。隣の扉を開けている。
「コーヒーなんてうちにねぇよ」
椅子に座ったまま不貞腐れた顔をした凪が言う。陽毬はキッチンに立ったまま、ぱちぱちと瞬きをしてもう一度棚の中を覗き込んだ。
「・・・ごめんなさい、ないみたい」
「いいよ、来る途中にお茶買ってきたから、凪が何もないと思うって言うから。グラスだけ出して」
陽毬らしいと思って、波多野は少しだけほっとしていた。そこに知っている陽毬がまだいるような気がして。陽毬が出してくれたグラスに、買ってきたペットボトルのお茶を注ぐと、何もないテーブルの上に、グラスに入ったお茶が随分綺麗な色をしていて、それが全くこの無色の家には相応しくないような、そんな気がした。お茶も波多野自身もここではよそ者だった。グラスに入った綺麗な緑色を眺めながら思う。陽毬が苦手なりに母親を今までずっとやって来たみたいに、波多野もこの家でよそ者にならない方法を、何年もずっと探ってきた。それがこんな風に終わる日が来ることを、知っていたような気もするし、知っていて見ないふりをしていたのかもしれないと思った。証拠にグラスに口をつけているのは、三人のうちで波多野だけだった。
「凪、久しぶり。元気そうで何より」
「・・・―――」
波多野と凪が横並びにテーブルにつくのに、陽毬は凪の正面の椅子を引いてそこに座った。少しだけ俯くようにして陽毬はいつものようにそう言ったけれど、それを側で聞いている波多野には随分とってつけた言い方に聞こえてならなかった。
「ユヅくんに迷惑かけてないでしょうね」
「うるせぇ、ババア」
浅く椅子に座った凪が、不貞腐れたような顔のまま、瞬時に意味のない暴言を吐く。波多野はそれに敏感に反応して、凪のほうを見やった。
「凪!」
「・・・怒らないで、ユヅくん」
言いながら陽毬は少しだけまた俯いて、笑うように口元を歪めた。陽毬はいつの間にかそんな顔もできるようになったのだと、それを見ながら波多野は少しだけ驚いていた。陽毬がそんな風に分かり易く表情を変えるのは、至極珍しいことだった。特に学生時代の陽毬を知っている波多野からすると。この部屋の中には波多野が知っている陽毬と、知らない陽毬が点在していて、二人の間にあった長い時間のことを、そうして嫌でも波多野に思わせた。当然だった、隣に座る凪はもう16になるのだ。こんなに長い間、自分はこの家の父親をやっていたのだと、波多野は黙ったまま思った。やれていたかどうかは分からないけれど。思いながらもう一度隣に座る凪を見やった。凪はそこで精悍になりつつある横顔を全く崩すことなく、ただ真っ直ぐ陽毬のことだけを見ていた。
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