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第16話

いつものように真中とのランチを終えて事務所に戻ってくると、波多野のデスクの前で柴田と藤本が立ったまま何やら神妙な顔をしているのが、波多野の目に入ってきた。そういえば藤本の抱えている仕事は一体どうなったのだろうと、今更のようにぼんやりと、波多野はそこでようやく思い出していた。最近、家のことばかりに構っていて、仕事の部分の機能にも支障が出ている。自分では他に沢山考えなければいけないことがあったとしても、職場に着けば仕事の脳に切り替えることができると思っていたし、そういう意味ではあんまり公私混同するタイプではないと長年思っていたが、案外そうでもないのかもしれない。それとも波多野自身はそうやって無意識に線引きをしているつもりだけれど、真中と家の話をしているうちに、今どっちの自分なのかよく分からなくなって、自分で線引きしたはずが、曖昧になっているのかもしれない。波多野が二人に近づくと、藤本のほうが先に気配を察知するみたいに顔を上げて波多野のことを見つけた、 「あ、波多野さん」 続いて柴田も顔を上げる。柴田は忙しいのと偏食がきついのとで、いつも青白くて具合の悪そうな顔をしていたが、今日は随分顔色も良くて、すっきりした表情をしているように見えた。こんな年度末で仕事が詰まっている時期に、柴田がそんな表情でいることは珍しい。 「志麻ちゃん、どうしたの?柴くん、ごめんね」 「あ、いや、俺は何も。ちょっと志麻子の愚痴聞いてただけです」 「そうなんです、波多野さんもちょっと聞いてください。ほんともう、クライアントがこのタイミングで変更要求してきて」 藤本が困ったように眉間に皺を寄せて、手に持った資料を広げてくる。それを見ながら、あぁ仕事をしなければと思ったけれど、波多野野の頭の中には、まだ凪の顔がちらついていた。おかげでその藤本の資料に何が書いてあるのか、文字がぼやけてよく見えなかった。 「うん、分かった。変更ポイント一緒に考えよう、午後イチで会議室とれるかな」 「分かりました、すいません」 「志麻ちゃんが悪いんじゃないよ」 「気ィ落とすなって志麻子、納期も延びたんだしゆっくりやれ」 言いながら柴田が珍しく明るく笑って、肩を落とす藤本の背中をぽんぽんと、決して嫌味ではない感じで叩いた。真中ならすぐさまセクハラと声を上げそうな藤本も、柴田のそれには黙っている。そして柴田は用事がなくなったのか、その痩せた背中をこちらに向けた。波多野の班は副所長である柴田のデスクがあるところのすぐ隣であったから、何でもなくてもその姿が目に入ってくることが多かった。 「あ、柴くん、ありがとうね」 波多野が慌てて自席に戻りかける柴田の背中に声をかけると、その紺色のカーディガンの痩せた背中がさっと振り返った。柴田は細身であることも影響しているのだろうが、ひどい寒がりで、大体いつもひとより厚着をしていることが多くて、今日も分厚いカーディガンを着ていた。 「いえ、ほんとに俺は何も」 「そう言っても。今忙しい時期でしょう」 「それがそうでもないんです」 言いながら柴田がにこっと笑って、やっぱりその顔はいつもより顔色がよく見えたから、案外本当のことを言っているのかもしれないなと、それを見ながら波多野は思った。柴田は真中が認めているみたいに、確かに仕事のできる人だったけれど、それ以外の部分では、その能力はあんまり発揮されないことが多いらしく、自分の限界が分からず飲み会では潰れていることが多いし、家に帰れば部屋は汚いらしい。あんまり想像できないけれど、柴田のすべてが完璧なもので成り立っていないことは、なんだか波多野を安心させたし、そういう意味では副所長になろうがなるまいが、柴田は波多野にとっては可愛い後輩のままだった。 「志麻子が言ってましたよ、今息子さん帰ってきてるんですよね、邪魔しちゃ悪いからって」 「あー・・・まぁそうなんだけど、なんか恥ずかしいなぁ、ごめんね」 波多野だって多分、野心がないわけではなかったけれど、それは真中に認められたいとか、誰かと比べてどうこうと思うような勢いのあるものではなかった。昔はそんなことを思っていたことがあったかもしれないけれど、もうそれがいつの話だったか思い出せないくらいには、ずっと昔のことになり果てていた。波多野にとってはそんなことよりも毎日の些末なことを捌くことで一生懸命だったし、向上心がないと言われたら確かにそうかもしれないけれど、別段こんな安心で安全な変わらない毎日のことを壊してまで何かをしようは思わなかった。波多野は多分、毎日がこんな風に穏やかに過ぎていくから、日々のことを愛していられたのだと思う。真中が時々揶揄したみたいに言う、それは博愛主義ということなのかもしれないけれど。 「恥ずかしいことじゃないですよ、家族のことを大事にするのは当然のことです」 「・・・ありがとう、柴くん」 やけにすっきりした顔をして、家族なんていないはずなのに、そんなことをまるで分かったように言う柴田のことを見ながら、波多野は小さくそう言ったけれど、なんだかやっぱり一番柔らかいところを触られたようで、少しだけ気恥ずかしい気分のままだった。事務所の中には波多野のように家族がいる所員もいたけれど、激務のあまり家庭を顧みられていないような現状を、柴田も副所長として少しは憂いていて、そんなことを敢えて言ってきているのかもしれないと思った。一番激務で命を削るみたいに働いているのが、柴田であることは多分ここにいる皆分かっていたと思うから、そんな言葉に意味があるのか分からなかったけれど。 「波多野さーん、会議室とれました」 「あ、じゃあ、いこうか」 藤本に呼ばれて一瞬柴田から視線を外すと、柴田はひらりと動いて、いつの間にか自席に戻っていた。 「志麻ちゃん、僕のこと柴くんに話しただろ」 「え?ダメでしたか」 「駄目じゃないけど、別に隠してるわけじゃないし、駄目じゃないけど、うーん」 会議室に行くまでの廊下を藤本と歩きながら、無害そうに丸い目でこちらを見てくる藤本に対して、一体何と言ったらいいのかよく分からなくなって、波多野は自分で首を傾げてしまう。 「うーん、なんて言ったらいいのかなぁ」 「えー、でも柴さんにここにこしながら聞いてくれましたよ、今日たまたま機嫌が良いって言うのもあると思うけど」 「まぁ、いいんだけどさ、なんか恥ずかしいよ」 「そうですか?でも波多野さん、私が西利に話した時は何も言わなかったじゃないですか」 「西利ちゃんはまた別だろう」 「えー、線引きがよく分かんないです」 言いながら、藤本はあははと明るい声で笑った。波多野からしたら仕事のほうがずっと単純で分かり易くて、頭を痛めるなんてことはなかったけれど、家族のことではずっと頭が痛い状態が続いているような気がしている。それは凪のこともそうだったし、きっと陽毬のことも含まれていた。それが昔の自分の選択で、その選択が今更間違っていると言うつもりもないし、思ったこともなかったけれど、最近はそれに直面させられていることが多くて、多分このあたりが引き際なのだと、限界なのだと頭では分かっているつもりだった。凪が泣きながら自分に訴えたことを、波多野はまた思い出しながら、本当に大切なものはひとつだけで、そのひとつだけしか、守ることができないのかもしれないと思った。例え、他のことを犠牲にしたとしても。

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