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第15話

運転席まで辿り着いた時、波多野はそれでも自分は今日仕事に行くつもりなのだと思った。まだ泣いているかもしれない凪をマンションにそのまま残しても、昨日の今日でまたどうやら学校にも行く気がないらしいことも咎めることができずに、それでも仕事に行かなければいけないのだと思った。そんなことに意味があるのかないのか分からないが、そういう風に自分の体にはインプットされていて、多少のことではそれが揺るがないということを、今更こんな風に唐突に分からせられたみたいだった。鞄の中から携帯電話を取り出して、陽毬の名前を探す。そういえばこんな朝早い時間に陽毬に電話をしたことはなかったけれど、きっと陽毬は今日も家には帰っていないだろうから、たぶんもう起きていて、ともすれば朝食も早々に済ませていて、すでに研究室で働いているのかもしれないと思った。けれど波多野はほとんど衝動的に、陽毬の名前を見つけ出すと迷わず通話のボタンを押していた。もう取り繕うのは限界だということは分かっていた。 『もしもし、ユヅくん?』 思ったよりはやくに陽毬は電話に出てくれて、波多野はほっとした。 「ひまちゃん?ごめん、今大丈夫?」 『うん、まだ大丈夫。どうしたの?』 「・・・ちょっと相談があるんだけど、凪のことで」 『凪?どうしたの、また何かあった?』 陽毬の声はいつもより少しだけ明るく聞こえて、波多野のその時の気持ちと全くそぐわなかったけれど、何だかそれが陽毬らしいと聞きながら波多野はひとりで思っていた。尤も自分と凪の間にあったことなど知らない陽毬に、こちらの事情を察しろというほうが横暴なのは分かっていた。分かっていたけれど何となく、波多野はそれをうまく飲み下せないような気がして、多分凪もこんな風な気持ちを抱えたまま、上手くいかないコミュニケーションをそれでも図ろうとしているのだろうと思った。 「うん、あのね、凪に本当のことを話そうと思う」 『・・・うん』 少しの沈黙の後、陽毬は流石に明るかった声のトーンをやや落として、ただ小さくそう呟いた。陽毬もきっと分かっていたのだろうと、それを聞きながら波多野は考えた。取り繕うのが限界に来ていることだって、もしかしたら波多野よりももっともっとはやくから、陽毬は凪の変化にも気付いていたのかもしれない。そういえば昨日の電話で本当のことを話したほうがいいのかなと言っていたのは、陽毬のほうだった。あの時はそれに自分は何も言う権利がないと思ったけれど、凪のあんな冷たい目を見てしまったら、大粒の涙を見てしまったら、波多野はそれにいつまでも知らないふりをしてはいられないと思った。 「陽毬ちゃんも一緒に、三人で話をしよう。凪が無気力になっているのは僕たちのせいだ」 『・・・私はいいんだけど。ユヅくんはそれでいいの?』 「え?」 『後悔しない?』 陽毬の小さくても確かな声が、ずっと耳の中に残っている。もうそれから随分時間は経っているはずなのに、耳の奥にへばりついているみたいに、時々耳鳴りが聞こえてきそうだ。陽毬はどうしてその時そんな風に、波多野に確かめるみたいに言ったのだろう。彼女のほうがそれを不安がっているみたいだと、波多野はひとりで考えていた。自分と凪の間に横たわる真実の正体を、誰よりも遥かによく分かっているのは、確かに彼女だけのはずだった。陽毬はもっと確信的な何かを、自分よりも遥かに何かを察知して、先回りしているみたいだと思ったけれど、波多野はその確信の正体を知ることはできなかった。 「ユヅ」 ふと呼ばれて顔を上げるとデスクの前に真中が立っていた。そういえば事務所の中がざわざわと煩い。いつの間にか昼休みになっていることに気づかなかった。真中はいつものように財布だけを持っていて、それを顔の前に掲げるようにして見せた。真中の言いたいことはそれだけでよく分かった。波多野はデスクの一番下の引き出しを開けて、鞄を取り出すとそれを肩にかけた。真中はランチで外に出る時に財布しか持っていかない主義だったけれど、波多野は色々と心配性な性格だったので、鞄を丸ごと持っていくことのほうが多かった。外は寒い、ブラックのコートを着た真中の背中に、凪のことを聞いていいのかいけないのか、波多野は真中の後をついて歩きながら、それを考えていた。聞かなくてもそんなことを、真中は察知する能力くらいありそうだったけれど。 「ユヅ、なんかあった?」 「・・・え?」 不意に真中がエレベーターホールで振り返って、波多野は息を飲んだ。 「いや、今日暗い顔してんなぁと思って、なんかあった?」 「・・・いや」 波多野がそうやって言い淀むと、真中は首を傾げた。やっぱり真中には分ってしまうのだと思った。陽毬には勢いで電話して、衝動が背中を押してくれて、話したほうがいいなんて言えたけれど、本当は波多野はまだ迷っていた。本当に凪にそれを明らかにしていいのか、明らかにしてしまったら、何かが変わってしまうのではないかと、その何かも分からずただ恐れていた。 「凪にさ」 「凪?」 「本当のことを話そうかと思って」 そう言うと、真中は目を丸くして珍しく驚いているようだった。ただ次の瞬間には、いつもの真中に戻っていた。波多野がこんな日がいつか来ることを予想していたみたいに、真中もきっとこんな日が来るのが分かっていたのだろうと思った。エレベーターの前に立ったまま、ふたりともボタンを押していないせいで、エレベーターは一向に昇ってくる気配も降りてくる気配もない。 「そっか。まぁ、そのほうがいいかもしれねぇな」 「・・・そうだよね、遅かれ早かれ、こうなってたよね」 自分に言い聞かせるみたいに波多野が呟くのを、真中は横目で見ながら、小さく息を吐いた。何となく真中は、波多野がその時本質とは全然違うことを考えていることが、分かってしまっていた。 「まぁ、俺が言うことじゃないけどさ。凪のこと大事だって思うんだったら、ちゃんと考えてやれよ」 「・・・うん、勿論、考えてるよ、僕はいつも」 答えて波多野はエレベーターのボタンをようやく押した。静かな起動音がして、エレベーターが下から上がってくるのが分かった。そうじゃなくてと、付け足しておいたほうがいいかなと真中は思ったけれど、思っただけでそれ以上のことは何も言えそうになかった。波多野がその選択をした時、陽毬も含めて自分たちは大学を卒業しようかという頃だった。その頃真中は事務所の立ち上げの雑多な業務に追われていて、その時波多野の身の回りで起こっていた事について、ノータッチだった。すべてが決定した後に、決定した内容だけを二人から聞かされて、それに頷くことしかできなかった。真中は今でも思うことがある。あの時もし、自分が起業なんて考えずに、どこかへの就職をさっさと決めて、真中の周りのほとんどの学生がそうだったみたいに、大学生活の残り僅かな自由を謳歌していたなら、きっと波多野はそれを真中にも相談しただろう。波多野が自分に相談しなかったのは、自分がその時それどころではなかったからだ、と真中はそれを波多野には確かめたことはないが、密かにそう思っている。それと同時に、もしもこの優しい親友にそれを相談されていたら、自分は一体それにどんな風に答えていたのだろう。答えていたら、現実は何か変わっていただろうか、それとも答えていたって、現実は何も変わらなかっただろうか。 優しい親友の横顔は、いつもより少しだけ沈んで見えた。

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