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第14話

その日、波多野は藤本のおかげで残業せずに、ほとんどいつもの時間に自宅のマンションまで帰ってくることができたが、何故かそんな日に限っていつまで経っても凪が帰ってくる気配がなかった。メールもしたし電話もかけたけれど、凪がそれに返事をすることはなかった。何度かかけているうちに凪の携帯電話の電源が落ちてしまったようで、波多野は無常なアナウンスを聞く羽目になった。そんな風にしながらでも、凪の帰りをそれでも根気よく待っていたつもりだったけれど、リビングのソファーに横になっている間に、どうやら眠ってしまったらしく、物音で波多野が目を覚ました時、日付はすっかり翌日になっていた。はっとして起き上がると、かけた覚えのない毛布が、体の上から滑り落ちて、床にたまる。 「なんでそんなことで寝てんの、弓弦さん」 ソファーの向こう、ダイニングテーブルからそう声がして、波多野は反射的にそちらのほうを見やった。そこには凪がいたけれど、凪は制服ではなくてTシャツに短パンという軽装だった。その凪の膝の上にソワレが丸くなっている。そして波多野がいつも朝に食べているロールパンをもそもそと食べている。波多野は状況がよく分からなくて、目を何度か瞬かせてから、もう一度携帯電話で時刻を確認した。朝の7時だった。いつも疲れて帰ってきているから、凪を待っている間、うとうとしてそのまま眠ってしまったのだろう。それにしてもこんな時間まで一度も起きずに、熟睡してしまうなんてと思ったけれど、今自分を責めていても仕方がなかった。 「凪を待ってたんじゃないか。なんで昨日帰って来なかったんだ」 「・・・俺?・・・あぁそう」 凪はその一瞬、すごく吃驚したように目を丸くしたけれど、ふいっとその責めるような波多野の視線から顔を背けた。なんとなく悪いことをしている自覚はあるのだろうなと、思いながら波多野はダイニングテーブルに近づいた。凪は少し俯いた格好のまま、まだパンを食べている。 「心配しただろ、どこに行ってたんだ」 「どこって、別に友達とカラオケ行って、それでオールしただけで、心配されるようなことはしてない」 そのまま波多野のほうを見ないで、凪はぼそぼそと小さい声でそう言った。見れば近くに学校の鞄と脱いだ制服が散らかっていた。本当に波多野が起きるほんの少し前に、きっと凪は帰ってきたのだろう。波多野が何と言えばいいのか考えている間に、凪はパンを口に押し込んでふらっと立ち上がった。居場所のなくなったソワレが床に降りたって短く鳴く。 「凪」 思わず呼び止めると、凪は半身になってちらりと横目で波多野のことを見た。その冷たい視線に波多野は背筋が凍るかと思った。何か言おうと思っていたけれど、そんな冷たい目で自分を見る凪のことを知らなくて、何を言えばいいのか分からなくて混乱する。いつの間にか凪は、波多野の知らない大人になってしまっている、波多野はその時何度目なのかそれを痛感していた。 「なに、もう寝るし」 「・・・凪、ひまりちゃんと一緒にいる時も同じことをしてるの」 その時冷たかった凪の表面に、一瞬でひびが入ったような気がした。凪はその口元を歪めて、また波多野の知らない顔をして笑った。 「あのクソババアは俺が何をしてようと心配なんかしねぇ」 「何言ってるの、凪、ひまりちゃんはひまりちゃんなりに・・・―――」 「弓弦さんくらいだよ、こんなに俺のことを心配してくれんの」 「・・・―――」 波多野はそう言って俯いて笑う凪に、今度こそかけてやる言葉が見つからないと思った。凪はそこでそうして、悪ぶってわざと怒られると分かっていてこんなことをして、心配されると何でもないと言ってその手を冷たく振り払ってしまうのに、心配してくれるのは波多野だけと、苦しく呟いてしまったりしているのだ。その二律班反する気持ちのことを、波多野はその時上手く掬い上げる自信がないと思った。凪が不安定に笑って、心配しなくていいと言いながら心配されるのがまるで嬉しいみたいに、不安定に笑うのに、一体どうしたらいいのかもう、分からないでただ茫然とその場に立っていた。 「なぁ、弓弦さん、俺のことやになった?」 「・・・凪、嫌になんて・・・」 「いいんだよ、別に。こんな息子やだもんなぁ、高校もこのまま中退だし、陽毬もさすがに恥ずかしいだろ」 「・・・なぎ」 俯いたまま凪はひくりと肩を揺らして、波多野は凪が泣いているのかもしれないと思った。口ではそんな強がったことを言っていても、凪の心の底が柔らかくてデリケートなことを、波多野だけは知っていたから。凪はそうやって鎧ってなんでもないふりをしていても、本当はすべてのことが怖くて仕方がないのかもしれない。不安定な存在の自分のことも。 「弓弦さんも愛想尽かしていいんだよ、俺のことなんて」 「本当の家族でもないのに、そんな風に心配してくれると、俺止めらんなくなる、全てのこと」 「だからいらないって言ってよ」 またひくりと凪の肩が揺れて、床にぽたりと小さな雫が落ちた。思わず波多野は凪の肩を掴んだ。強い力で掴んだら、凪がはっとしたように顔を上げて、その眼に今にも零れ落ちそうなほど沢山涙が浮かんでいて、波多野は後悔したけれど、一体何に対する後悔だったのか、分からない。 「凪、なんでそんなこと言うんだ」 「分かってんだよ、俺はアンタと陽毬の息子なんかじゃないんだろ、弓弦さん」 言いながら凪は波多野の腕を振り払った。その衝撃でまた目に溜まっていた涙がぼろぼろと落ちていった。それをどうすることもできなかった。波多野も、そして凪自身も。もう取り繕うこともできなかった。波多野はさっきまでの混乱がまるで嘘みたいに、取り乱す凪のことを冷静に眺めている自分がいることを知っていた。どこかでこんな日が来てしまうことを、波多野だけは知っていたのかもしれない。 「俺と弓弦さん、全然似てない。住んでるところも違うし、苗字も違う。なのになんで家族のフリなんかするんだ。そんなに陽毬が大事なのかよ」 「・・・凪、お前は勘違いをしてるよ」 だからその時、波多野は冷静に凪を諭したはずだった。諭そうとしていた。けれどそれは逆効果だったみたいで、凪の火力は収まるどころか、一層燃え上がったような気がした。 「勘違いじゃない!俺のことだからわかる!」 「本当のことも教えてくれないのに、父親面すんじゃねぇ!」 今度こそ凪は強い力でもって波多野の手を振り払って、そのままリビングを出て行ってしまった。あとには乱暴に扉が閉まる音だけが反響している。波多野は行ってしまった凪の背中を追うのは止めて、床に残った小さな水たまりを見ていた。凪の言っていることは、半分くらいきっと正しかったから、波多野はそれを否定することができなくて、叱るつもりが叱られていて、凪を慰めるつもりがそれもうまくいかなくて、どうしていいのか分からないまま、そこに無様でも立ち竦んでいることしかできなかった。 どうすべきかなんてひとつしか結論のないことを、波多野はまだしつこく考えていた。

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