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第13話

「じゃあ波多野さん先に帰ったほうがいいですね」 「え?いいの?」 「とりあえず今日は私と西利で残業しますよ、明日また相談のってください」 言いながら、藤本は手元の資料を揃えて、さっきまで無駄話をしていたのにさっさと立ち上がりかけた。他の班では、例えば天海の班なんかは、リーダーの天海が一番帰るのが早かったりすることもあるが、大体はリーダーの仕事量が圧倒的に多いことも要因だろうが、所員よりも残業していることが多いし、所員の決定権では先に進められないこともあって、多分天海以外のリーダーは、所員が残っていると意図的に残っている節もある。藤本の抱えている仕事は、波多野も少し口を出しはしているものの、基本的には藤本の仕事であったが、だからと言ってリーダーである自分が先に帰ってしまうなんてことが、許されるのだろうかと、正直藤本の提案にはすぐにでも頷いてしまいたかったけれど、波多野は少しだけそんな風にも思った。 「えー、志麻さん私もですかぁー」 「いーじゃん、西利手伝ってよ、いつも手伝ってあげてるでしょ」 「えー、だってぇ」 眉尻を下げて西利は不服そうな表情を浮かべたけれど、藤本にそう言われてしまっては、それ以上強くは出られないようだった。ふたりが席を立って会議室を出て行くのに、波多野もまだ少しもやもやしながら立ち上がり、藤本の背中を追いかけた。 「志麻ちゃん」 「なんですか?」 呼びかけると藤本は何でもないことのように振り返って、その茶色い目で波多野を見上げた。 「その、ほんとに僕帰って大丈夫?」 「大丈夫ですよ、なんか困ったら・・・あー、柴さんにでも相談しますし、今日絶対上げなきゃいけないわけじゃないですから」 「うーん、まぁそうだけど・・・」 「波多野さんは心配しないで、早く息子さんのとこに帰ってあげてください」 そう言って笑う藤本は、やけに大人びた顔をしていて、波多野よりずっと年下の癖に、まるで年上みたいな言い方をしたけれど、波多野はそれが別に嫌な感じではなかった。 「・・・ごめんね、志麻ちゃん、ありがとう」 そうやって謝りながら、心の中では本当は残業しないで済みそうなことに、ほっとしていた。凪をひとりにしないで、今日もちゃんと向かい合ってご飯を食べることができそうなことに、波多野は心底ほっとしていた。そういう感じを、きっと藤本も分かっているのだろうなと思いながら、波多野はそれを隠す術が今のところ自分にはないことが分かっていた。 それから藤本と西利を所内に残して、波多野は仕事を切り上げて家に帰ろうと、地下駐車場まで降りてきていた。その前にこれから帰るよと凪に連絡したほうがいいかなと思って携帯電話を取り出し、運転席で凪の番号探す。すると見ていた携帯電話に、逆に電話がかかってきた。ディスプレイには陽毬の文字が出ている。何かあったのかなと思いながら通話のボタンを押す。基本的に陽毬からはあまり電話はかかってこない。何か月かに一回の食事だって、波多野のほうから誘うことがほとんどだった。 「もしもし、ひまちゃん?」 『もしもし、ユヅくん今大丈夫?』 「あ、うん。今から帰るところ、どうしたの?」 きっと陽毬は研究所から電話をかけてきているのだろうなと思いながら、波多野は携帯電話を握り直す。 『今日ね、凪の担任の先生から電話がかかってきたの』 「え?先生から?どうしたの、何かあった?」 『いや・・・うん、凪ね、あんまり学校に行ってなかったみたい』 「え?」 ふっと波多野の脳裏に、昨日真中と家に帰った時に、凪がどうも学校に行ってなさそうな感じがしたことを思い出していた。今日は学校に行くと制服を着ていたので、安心して忘れてしまっていたけれど、そういえばその時の凪は、別に学校をさぼったのが今日だけではなかったみたいな、それはいつもの延長戦のような、そんな慣れた雰囲気だった。陽毬は家にいないことのほうが多いから、そんな風に取り繕う必要がなくて、結果として波多野の前で簡単に露呈することになったのだろうが。 「ひまちゃん知らなかったの?」 『あー・・・うん、だってあの子、モデルのバイトはとばしたことなかったから、学校も真面目に行ってるんだと思ってた』 「・・・そう、バイトは好きなのかな」 陽毬の声はこんな時でも淡々としていて、波多野ほど事を重大だと思っていない様子が伝わってくる。担任の先生はこの陽毬相手に、一体何を話したのだろうと思うと、波多野は少しだけゾッとした。 『アレだと思う。前に一回ユヅくんが褒めてくれたでしょ。あれから張り切っていくようになって』 「・・・んー・・・いつだろ・・・」 『ずっと前、始めた頃だと思う。毎月雑誌、ユヅくんの家に届いてるでしょ』 波多野は凪がモデルのアルバイトをはじめたことを、後から凪に聞かされた。繁華街で声をかけてきた怪しいスカウトマンについていくなんて、自分なら絶対反対しただろうけれど、そこは陽毬で、凪の好きにしたらいいと実に返答はドライだった。確かに凪の容姿は昔から整っているほうだと親ばか半分思っていたけれど、そうやってプロに仕上げられた凪は、他のページに載っているモデルよりも、売り出し中の若手俳優よりも、ずっとずっと美しく瑞々しく思えたのだった。それをただそのまま、多分凪に伝えたのだろうと思う。波多野は昔から凪のことはかわいいかわいいと褒めていたから、多分その延長だった、波多野にとっては。 『アレ、あの子が自分で送ってるの。ユヅくんに見てもらいたくて』 「・・・―――」 知らなかった。てっきり事務所の誰かが気を利かせて送ってくれているのかと思っていた。そういえば、宛名の字は凪の字に似ていたような気もする。凪の字なんかしばらく見ていないような気もするけれど、波多野は運転席に座ったまま、小さく溜め息を吐いた。 「ひまちゃん、この間、凪が僕に本当に自分はひまちゃんと僕の子なのかって聞いてきたよ」 『・・・そう』 少しだけ陽毬の返答には間が空いた。 『年々吾妻(アガツマ)にそっくりになっていくと思わない?』 『そろそろ本当のことを話すべきなのかな』 波多野はそれに、何も言えそうになかった。

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