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第12話
その日は午後から会議が立て込んでいた。波多野は自分の班に新人が多いこともあって、その仕事をちゃんと見てやるために、自分の仕事を抱え込まないようにしている。だから他のリーダー連中とは違って、出張よりも内勤のほうが圧倒的に多かった。その日最後に藤本が自分の抱えている仕事のことで相談があるというので、波多野はまだ会議室にいたけれど、その時そこに座っていたのは波多野と呼び出した張本人の藤本と、その仕事には直接関与していないはずの西利だった。ふたりはこの男性所員が多い事務所の中で、数少ない女性所員であり、歳が近いのもあっていつも何かと楽しそうにしているのが、リーダー席に座っている波多野のところからも見えていた。
「んー、ちょっとこれまずいね」
会議室の中で、波多野は藤本の抱えている仕事の進捗状況を聞きながら呟いた。藤本は正面の席に座っていて、今日もいつもみたいにあまり顔色が良くなかった。
「あー、ですよね、そろそろ残業してエンジンかけたほうがいいかも・・・」
「うーん、そうだねぇ、今あんまり残業したくないんだけどなぁ・・・」
ぽつりと波多野が呟くように言うと、自分は関係ないみたいな顔をして藤本の隣に座って、ホットコーヒーを啜っていた西利がぱっと顔を上げた。
「珍しいですね、波多野さんがそんなこと言うなんて」
「えー、僕だっていつも残業はしたくないんだけど」
「あはは、それは私もです」
「今、息子が泊まりに来てるから、早く帰ってあげたいんだよね」
言いながら波多野が手元の資料にふっと目を落とすのを、藤本はじっと見ていた。西利はまだ呑気にコーヒーを熱そうに飲んでいる。
「あ、そうなんですねー。あれ、息子さん小さかったですっけ?」
「ううん、もう16歳なんだけど、普段・・・奥さんのところにいるから、たまにしか会わないから甘やかしちゃうというか、むしろ僕が甘えてると言うか、なんかそんな感じ」
「えー、なんか波多野さんが甘えてるなんて想像できなーい、できないですよね、志麻さん!」
今まで自分は関係ないみたいな顔をしていたのに、急にキラキラした目になって、西利は隣で資料を読んでいる藤本の肩を掴んで、それをがくがくと揺さぶった。藤本は目の下にクマを作った顔で、仕方なさそうに顔を上げて、楽しそうな西利を見やってから、彼女にも分かるように小さく溜め息を吐いた。波多野が結婚しているのに、陽毬と一緒に生活をしていないことは、波多野も隠していないので知っている人間は知っている。別居しているというとやはり聞こえが悪いので、直接聞かれない限り、波多野は自分からそれを話すことはなかったし、多分西利には言ったことはなかったと思うけれど、この分では西利はそれをよく知っているようだったし、藤本が喋ったのかなとふっと藤本のほうを見やる。
「波多野さんとこの息子さん、超イケメンなんだよ、知ってる?西利」
「えー、しらなーい!顔見たいですぅ、写真とかないんですか、しゃしん!」
「その辺のコンビニ行ったら雑誌売ってるからそれ見たら?」
「え?雑誌?雑誌に載ってるんですか?」
さらにキラキラな目になって、西利は藤本から視線を反らして、今度は波多野を見てくる。藤本もなんだかそのさまが面白いのか、切迫する仕事から現実逃避したいのか、それを見ながら肘をついてにやにやしている。そういえば、何の時だったか、藤本には凪の話をしたような気がした。
「あー、なんかモデルのバイトをちょっとしててね・・・」
「なんていう雑誌ですか!私ちょっと買ってきます!」
コーヒーを持ったまま、勢い良く西利が立ち上がろうとする。慌てて波多野もそれにつられて立ち上がった。藤本だけがそれをぼんやり目で追っている。
「いいよいいよ、写真なら僕いっぱい持ってるから!」
「じゃあ見せてください!」
「あ、うん・・・」
あんまり西利が勢いよく言うので、波多野はそれに気圧されながら、ポケットに入っていた携帯電話を取り出した。昔は凪もよく写真を撮らせてくれたが、最近はやはり反抗期なのか嫌がってあんまり撮ってないなと、画像フォルダの中を探しながら思う。
「西利、分かってると思うけど波多野さんの息子さん16だからね?」
「分かってますよぉ、でもイケメンは摂取しておいて損はないです」
「何なの、その考え方、ちょっとよく分かんないんだけど」
自分で振ったことだったが、西利の食いつきが異常だったので、波多野に申し訳ないことをしたなと思いながら、藤本はちらりと正面に座る波多野を見やった。波多野はそこで西利に言われるまま、真面目に携帯電話の中の写真を探しているようだった。
「あー、最近のはあんまりないけど、これとか?今年の入学式のやつだけど」
「わー、制服―!確かにすっごいイケメン!かわいいですね」
探し当てた入学式の写真を画面に表示したままにして、西利に携帯電話を渡すと、西利は目をキラキラさせてそれを見て、にこにこ笑って褒めてくれた。凪の容姿を褒めてくれる人は、西利以外にも今まで沢山いたけれど、波多野はそのたびに自分のことを褒められているみたいに嬉しくなるから、多分これは親ばかを拗らせているのだなと自分で自覚している。
入学式には陽毬が出席できなかったから、波多野が代わりに出席した。そういうことは、ふたりの間ではよくあることだった。写真の中では、入学式と大きく書かれた看板の前に、まだ真新しい制服を着た凪が、胸に新入生用のピンク色のコサージュをつけて、少し恥ずかしそうに立っていて、その隣にスーツを着た波多野が立っている。入学式に出席できなかった陽毬に写真を送ってあげようと思って、撮ったものだった。凪は別にそんなのいらないと言ったけれど、波多野が自分も欲しいしと言うと、やけにあっさりと撮らせてくれた。それが一年ほど前の写真で、そういえばそれ以降写真を撮っていないなぁと、ぼんやり波多野は思った。
「あー、また大きくなりましたね、息子さん、凪くんって言いましたっけ?」
西利の隣から波多野の携帯電話を覗き込むようにして、藤本が言う。波多野はよく覚えていなかったけれど、藤本に凪の話をしたのはいつだったのだろう。
「あぁうん、最近はちょっと反抗期で、言うこと聞かなくて困ってるんだけど」
「えー、いいなぁ、私もイケメンにわがまま言われたーい!」
「アンタ、わがまま言うほうでしょ」
「ひどーい、志麻さん!」
「あはは」
藤本のいつもの毒舌を聞きながら、いつものように波多野は笑った。西利が携帯電話を返してくれるのを、仕舞わずにそのまま机の上に置いておく。今日この分では帰るのは何時になるか分からなかったから、凪には電話をしておかなければいけなかった。きっと陽毬の家にいる時は、一人でご飯を食べているから、自分の家にいる時くらいは、向かい合ってちゃんと目を見てご飯を食べたかった。そういう時間が凪に圧倒的に足りていないことを、波多野だけは分かっていたから。だからたかが一回だけれど、されど一回、それでも凪にひとりでご飯を食べて先に眠っておくように、と言うのは気が引けた。
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