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第11話

失礼しますと小さい声で言って職員室を出て、凪はふらふらと教室までの階段を上っていた。将来のことなんてどうでもよかった。陽毬が神童と言われるほどかつて優秀だったこと、研究員として働きはじめた今でも、相変わらず周囲の人々に信頼されて、研究も実績を上げているらしいことを、陽毬は決して口にはしなかったが、そういう外聞はなんとなく誰が教えてくれなくても側にいれば凪にも理解できた。その陽毬の息子であるのに、自分にはそういう才能は全くなかった。陽毬も教育熱心でなかったから、凪に勉強するように言ったことは一度もないし、テストでどんな点数を取ってきても、どんな成績であっても、陽毬がそれを気にすることはなかった。気にされても困るけれど、自分は陽毬とは違うから、でもそんな風に何にも言われないでいると、本当に陽毬は自分に興味がないのだなと凪は息をするように何度も思うのだった。なんであの神童からこんな出来損ないが生まれるのか、陽毬は一度もそんなことを言ったことはないけれど、凪はそう彼女が思っているのではないかと思って、もう自分のことを見限っているのではないかと思って、そんなこと別にどうでもいいことだと強がりながら、本当は少し怖かった。陽毬にいらないと言われる日がいつか来ることも。 (弓弦さんに呆れられるのも) (もう優しくしてくれないかもしれない) 本当はそれだけが怖かった。でも将来のことなんて考えれば考えるだけ、よくないことが出てくるみたいで嫌だった。目の前の楽しいことだけを毎日消費していたかった。そんなに沢山、楽しいことがあるわけではなかったけれど。それでも凪の毎日に波多野がちゃんといてくれて、電話をかけたら出てくれて、おはようもおやすみも言う相手がいることが、そういう当たり前のことを、凪は凪の尺度で愛していたし、失いたくないものがあるのだとしたらそれに違いなかった。 「あ、いた!凪くーん!」 ふっと視線を上げると、教室から女の子たちが何人か出てくるのと目が合った。俯いたまま考えながらひたすら階段を上っていたら、いつの間にか1年生の教室がある3階に戻ってきていた。女の子たちは短い制服のスカートを翻して、皆楽しそうな顔をしている。どうして彼女たちはこんなに幸せそうに笑ったりするのだろう、凪には理解できなくてただ不思議だった。 「凪くん、島田なんだって?大丈夫だった?」 「あ、うん、出席日数のことだった、大丈夫」 言いながら、留年なんかしたら、全然大丈夫じゃないし笑い事じゃないと思いながら、一応ポーズの意味も込めて口角は上げておく。陽毬はお世辞でも笑ったりできない人間だったが、凪はそれに比べると自分はまだマシだという自覚はあった。こういう時に相手が求めている言葉を呟いて、ただその場が円滑に進むようにすることは容易かった。女の子たちは凪の返答なんか興味がないくせに、良かったねと口々に言って笑っている。何がいいのか凪にはよく分からない。凪には分からないことばっかりだった。 「あ、そうだ。凪くん今日放課後カラオケ行かない?」 「いいじゃんそれぇ、皆で行こうよ、ね」 「・・・あー・・・うん」 ぼんやりしながら返事をして、周りの女の子たちが色めき立つのを聞きながら、凪は波多野のことを考えていた。陽毬の家にいる時はよかった。陽毬は凪に早く帰って来いとか、遅くなるなら連絡をしろとか、そういうことは一切言わない人だった。だってまずもって彼女自身がそういうことができない人だったからだ。研究が忙しくなってくると、何日も黙って家を空けることも別段珍しくなかった。彼女にとって家に毎日帰ることは、優先順位が低く、やらなければならないことではなかった。だけど波多野は多分、今日も遅くなるかもしれないけれど12時を回るまでには帰ってくるのだろう。そして眠そうな凪に向かって言うのだ。 『ごめんね、遅くなって、ただいま、凪』 ただいまもおかえりもきっと言う相手がいる。波多野は自分とは違って、それを知っているのだろうと凪は思う。波多野が自分に優しくしてくれているのは、きっと陽毬が母親として機能していないことを知っているのに、父親である自分は何も役割を負っていないことの、罪悪感からきていることだって、凪はもう随分前から分かっていたけれど、それでも誰かに無条件で頭を撫でてもらえることも、些細なことで褒めてもらえることも、凪にとってはとても貴重なことで、重要なことだった。だから波多野だけは失えないのだ、自分の人生の中で、波多野だけは失うわけにはいかなかった。 (分かってる、弓弦さんが俺に優しくしてくれるのは多分) (俺があの人の息子だからだ) 廊下のガラスに自分の顔が映っている。凪に興味のない陽毬以外は、皆いつもそれを褒めてくれた。モデルのアルバイトをしていると、綺麗な服を着せてもらって、プロのアーティストにヘアセットもメイクもしてもらって、偽物の小道具の並んだスタジオの中で、偽物の笑顔を作る。出来上がった写真は恥ずかしいからと言って、凪はあんまり見ないようにしているけれど、雑誌になった後のそれは、自分でもチェックするようにしている。雑誌の中で笑う青年は、何にも悩みがなさそうに見えるし、人生も順風満帆に思える、まるで自分とは別人みたいだと、凪はそれを見ながらひとりで考えている。 (でも俺は知ってる、たぶん) (俺はあの人の息子なんかじゃない) 陽毬はいつも凪の前では無表情でいることが多くて、笑っているところなんか見たことがない。過去に怒られた記憶もないし、勿論泣いているところもみたことがない。彼女がそういう人間らしい感情を持っているのかどうか、疑わしいくらいにいつも陽毬は静かだった。たまに波多野や真中も交えて、食事をすることもあったけれど、そういう時でも陽毬は変わらずに、真中の冗談にもひとつも笑ったりしない人だった。陽毬はそういう静かな母親だったけれど、その目元や横から見た時の鼻筋なんかは、自分とそっくりだと凪はひとりで思っている。陽毬と自分は似ていないようでいて、そういう外見的なところはやはり親子なのだと、凪に思わせるのには十分だった。けれど波多野は自分とは全然似ていないと凪は思っている。誰にもそんなことは言われたことはないけれど、切れ長で奥二重の瞳も、尖った顎も、それでいて柔らかい声も、高い背も、何もかも自分にはないところばっかりだ。陽毬は合理的だと言って切り捨てたけれど、別居や別姓の理由だって、きっとそれに起因しているのだ、誰にもそんなことを言われたことはないのだけれど、凪は確信的に思っている。 (俺が息子じゃないのに、あの人が俺に優しくしてくれる理由は一体なんなんだ) (全ての物事には理由があるんだ、理由がないことなんてない) 陽毬ならきっとそう言うだろう。そしてそれはきっと正しいに決まっている。 「凪くーん!授業始まるよ」 呼ばれてはっとして振り返ると、女の子たちは半分以上教室に吸い込まれていて、そこから顔を覗かせて、にっこり笑って凪を呼んだ。 「カラオケ楽しみだね、私久々に行くー」 「この間さー、えみちゃんと駅前のとこのデラックスルーム入ったんだけどマジ凄かったよ、あそこにしよ」 「ミラーボールついてるとこでしょ、やばいよねあそこ」 笑いながら彼女たちが話すことに、適当に相槌を打ちながら、凪も教室に入って自席に戻った。食べかけのパンがそこには残されていて、今朝家を出てくる時に、波多野が自分にお昼ご飯のための小銭を渡してきたことを、凪はぼんやりと思いだしていた。

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